日本人にとっての朝鮮通信使

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朝鮮通信使来朝における庶民の負担

朝鮮通信使来朝における庶民の負担 

浜田昭子

 

朝鮮通信使の来朝は、村々にとっては大変な負担を強いられる行事でもありました。通信使来朝の度に日本全国、六十四州の幕府領と大名領に国役銀としてその費用負担を命じられたのです。特に通信使の通行する街道の村々には、道筋の整備や川での綱引き人足などの労役が懸けられます。庶民にとっては、臨時の重い課税となるのです。

通信使来朝が河内の庶民にとってどのようなものであったかが明らかになる史料が、今米村の川中家文書にあります。当会では川中家文書の解読を終えて史料集を刊行していますので、その詳細を紹介しましょう。

文化五年(一八〇八)に一二回目の通信使来朝に対する国役銀の御触書が廻ります。その時、摂河州一三二ヶ村という広範囲な村々がその入用金の赦免を願う嘆願書を提出したのです。摂河州一三二ヶ村にとってはこの国役銀を負担することがどうしても出来ない事情があったのです。

これらの村々では、来朝の節に、国役銀を上納する村が二七ヶ村、鶏を上納し、その代り国役銀を半分納める村が七ヶ村、その他は、淀川筋の綱引き人足に出る村と、通信使の宿泊する宿駅での荷物運びの人足に出る村があったのです。鶏は通信使の料理に使われたのでしょう。

しかしながら、これらの村々では凶作が続いていました。六年前の享和二年(一八〇二)より文化四年(一八〇七)までの間に二度もの前代未聞の大洪水に見舞われ、作物は水腐れとなり、住宅まで浸水し、村人は生きることすらも覚束ないほどに困窮していたのです。

領主より御救い米のための銭と、種もみ代銀を拝借してようやく命を繋いできたのです。この拝借銀については、五ヶ年賦と十ヶ年賦で返済するようにと命じられています。その上にそれぞれが借り入れている借財もあって、とうてい国役銀に応じることは出来ないので、国役銀を赦免してほしいとの嘆願なのです。

しかしながら、大切な国役銀の赦免が叶わないのであれば、この年より文化十四年(一八一七)まで一〇年間延期してもらい、翌十五年より五ヶ年に渡って割賦で上納したいと、涙ぐましいばかりの殊勝な訴えをしています。

最後には「何分必死難渋の百姓共でございますので、広大の御慈悲でお聞き届けくださいますれば、あまねく百姓一統有り難く存じ奉ります。」というまさに懸命な願いなのです。江戸時代におけるこうした行事は、庶民の大きな犠牲の上に成り立っていたのだということがわかります。

この時の来朝は一一代徳川家斉の将軍襲職の祝賀のためでしたが、両国の年来の凶作による困窮によって延期になり、三年後の文化八年(一八一一)に来朝します。しかし使節は対馬に留め置かれ、その応接も対馬で行われました。これを最後に通信使来朝は断絶します。河内村々は結局この国役銀の負担は免れることになったのです。

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