会報「くさか史風」第2号刊行

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会報「くさか史風」第2号紹介

会報「くさか史風」の第2号を刊行しました。

今回も充実の内容です。

目次

 

「くさか史風」第二号 仲間紹介・・・・・・・・・・2

 

一 シリーズ『日下村森家庄屋日記』にみる江戸時代の暮らし

第二回 勝二郎の疱瘡

浜田昭子・・5

 

二 シリーズ 私と古文書との出会い

第二回 明治の医師の日記『忍耐堂見聞雑誌』   阪田照幸・・13

 

三 シリーズ 『生駒山人詩集』より

第一回 日下四時吟 山路孝司・・15

 

四 生駒山人・孔文雄 野里屋養子時代の修学

ー懐徳堂通学の可能性ー      山路孝司・・18

 

五 塩川家文書「由緒書」に見る大坂の陣

ー豊浦村中村家由緒の真偽に迫るー 浜田昭子・・22

 

六 個人蔵 大阪城天守閣寄託

徳川家康画像について      浜田昭子・・41

 

七 日下丹波神社

曽我丹波守墓碑銘について    浜田昭子・・43

 

八 深堀のかんぼこ         諸熊敏廣・・49

 

九 俳句              南野節子・・53

 

編集後記 会報「くさか史風」編集長 長谷川治・・54

 

会報「くさか史風」第2号 記事紹介

仲間紹介

 

一「シリーズ 『日下村森家庄屋日記』にみる江戸時代の暮らし 浜田昭子」

第二回として「勝二郎の疱瘡」を取り上げました。享保時代はまだ疱瘡の伝染性も知られていない時代です。迷信を信じ、効くとは思えない怪しい薬に頼り、疱瘡神を祀り、恐ろしい疫病から逃れようと努力する人々の必死の想いを知ることができます。その中でも優れた医師たちのたゆみない研究が、少しずつ成果を上げていたのです。原因も治療法もわからない難病に、めげることなく立ち向かった、江戸時代の人々の姿を見ることができます。

 

二「シリーズ 私と古文書との出会い」

第二回は阪田照幸さんです。彼は常々歴史に興味を持つ中で、古書展示会で、自身の住む枚岡の文字を表紙に見つけ、地元の歴史に触れることができるかもしれないとの思いで『忍耐堂見聞雑誌』を入手したのです。それは、明治から昭和にかけて枚岡で地域医療に尽くされた一人の医師の記録でした。この史料を当会に持ち込み、会員として解読にも携わりました。

『忍耐堂見聞雑誌』には、今ではもう見ることのできない緑豊かな自然あふれる枚岡で、江戸期の懐かしい風俗が残っていた明治後期、医師としての科学的な目と、俳句や和歌に親しむ鋭い感性で、新しい時代の波に洗われていく民衆の暮らしを見事に描き出しています。我々はこの史料から、明治の近代化への道筋にあったものの多くを学ぶことができたのです。

 

三「シリーズ 『生駒山人詩集』より 山路孝司」

今回からシリーズで始まった生駒山人の漢詩の解説です。享保時代の日下村庄屋、森長右衛門貞靖の長男である生駒山人は、大坂の商家野里屋との養子を解消した後、日下村に帰り、漢詩人として大成します。地元日下の誇りである山人を、我々の手で取り上げる意義は非常に大きいものがあります。

山人がこよなく愛した日下の清明な山や川、季節の移ろいがスケッチされ、親友であった龍子明との交情や、父母や末弟との死別の悲しみなど、哀切溢れる想いを詠んでいます。

第一回は「日下四時吟」として、日下村の美しい四季と、農作業に励む村人の姿を写し取っています。そこに、父祖伝来の地に寄せる、山人の限りない郷土愛を感じ取ることができます。

 

「生駒山人・孔文雄 野里屋養子時代の修学ー懐徳堂通学の可能性ー 山路孝司」

生駒山人が大坂の商家野里屋へ養子となった時期の修学を取り上げています。山人が十一歳で養子に入って二年後に大坂の学問所「懐徳堂」が開校します。山人の養父である野里屋四郎左衛門は、大坂南組惣年寄として、その設立に関わっていたのです。山人が懐徳堂で学んだ可能性は大きいと思われます。

山人の次弟万四郎は大坂の平野屋へ養子に入り、清助を名乗っていますが、懐徳堂の享保二十年定約に連署している平野屋清助は、万四郎の義父となる人でした。万四郎は漢詩人としては孔文禎と称し、長兄山人とともに

『金蘭詩集』にその名を連ね、漢詩集「桃亭稿」を遺しています。

また山人の義兄・足立平五郎の子息・重右衛門も懐徳堂の門人であった可能性も指摘し、山人の義弟・足立方行の息女(のち唯心尼として上田秋成を日下村に招く)が嫁いだ千草屋が、懐徳堂へ支援を行っていることなど、興味深い指摘が多く、意欲的な論考となっています。

 

「塩川家文書[由緒書]に見る大坂の陣ー豊浦村中村家由緒の真偽に迫るー 浜田昭子」

昨年、水走村塩川家文書に出会い、その解読を進める中で発見した由緒書には、大坂の陣の際の豊浦村中村家における徳川家康の宿陣に関する内容が含まれていました。中村家由緒は、他に証明する史料がないという、欠点がありました。しかも批判的な論文も出ていたので、この史料でその真偽を確かめることができると直感しました。由緒というものには、後世の人間の手で様々な手が加えられています。そこから史実を取り出すことは、かなり呻吟するものでしたが、中村家由緒が懸けられていた疑惑からは解放することができたのです。こうした由緒が、中村家と塩川家に伝えられた意味を深く掘り下げると、当時の人々が神君家康に対して、どのような想いを抱いていたかということが見えてきます。

 

塩川家文書にはもう一点の由緒書があり、それは石山合戦における塩川家先祖の戦死に関するものでした。この史料の検証は次号に回すことになりましたが、塩川家が大坂の陣と石山合戦という戦国時代の大きな画期となった合戦に関しての重要な史料を遺していたことは、大きな発見であり、我々にとっては大変に有難いことでした。この史料からわかることをしっかりと検証していくことが、我々に課せられた課題であると思います。

 

六「個人蔵 大阪城天守閣寄託 徳川家康画像について

浜田昭子」

先の「塩川家文書[由緒書]に見る大坂の陣」に関連して、大阪城天守閣に寄託されていた、豊浦村中村家の家康画像を取り上げました。この画像は大阪城天守閣館長北川央氏の検証によると、大坂夏の陣の際に家康が宿陣した中村家に、家康を描いた家康画像が伝来し、大坂谷町代官辻守訓がその写しを所望したために、中村四郎右衛門が模写して贈ったものとされています。

中村家の所蔵品については『枚岡市史・史料編』に詳しいものの、この画像については記されておらず、新しい史料として貴重なものです。大阪城天守閣の許可をいただいて画像を掲載することができました。

七「日下丹波神社 曽我丹波守墓碑銘について 浜田昭子」

塩川家由緒にも登場する、日下の丹波神社の祭神である曽我丹波守の墓碑銘について検討したものです。この墓碑銘は現在丹波神社の社殿の中に祀られています。

皇学館大学の白山芳太郎教授のご指導をいただき、当会会員山路孝司さんの努力によって、正確な翻刻と解説を目指したのです。儒学的で難解な文言と、読み取れない異体字や異名と格闘したのですが、なお錯誤もあろうかと思われます。今後の諸賢のご教示を期待するものであります。

 

八「深堀のかんぼこ 諸熊敏廣」

かんぼこは魚のすり身を油で揚げたお惣菜です。長崎出身の諸熊さんにとって幼い頃の一番の思い出の品なのです。学校から帰ると、お母さんから頼まれて、友達と連れ立って買いに行きます。子供が行くと必ず一枚おまけしてくれて、それを空き地で食べたこと、その美味しかったこと、戦後の、誰もが貧しい時代にあった、懐かしい暮らしの一コマを素直な文章で綴ってくれました。

 

九「俳句 南野節子」

日ごろの研鑽の成果を寄せてくれました。何かしらほっとする一編になりました。

 

編集後記 会報「くさか史風」編集長 長谷川治

 

 

 

平成三十年十一月二十日

日下古文書研究会代表 浜田昭子

 

 

 

 

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