『日下村森家庄屋日記』から江戸時代の暮らしを紹介

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『日下村森家庄屋日記』から八代将軍の日光社参

日下村庄屋森長右衛門貞靖の記録した『日下村森家庄屋日記』には二九〇年前の日下村の日々の暮らしが詳細に描かれています。まず享保十三年に行われた八代将軍吉宗の日光社参を紹介しましょう。この時、日光社参という江戸で行われた出来事にもかかわらず、遠く離れた山里である日下村にも、かつてないほどの厳戒態勢が敷かれたのです。長右衛門は大騒ぎの日下村の様子を細大漏らさず記録しています。将軍が江戸城を留守にするということが、当時どんなに大変なことであったかが分かります。この時全国で、同様の限界体制だったはずです。それは村人にとっても大変な緊張を強いられる出来事だったのです。

1 八代将軍吉宗の日光社参 吉宗の政策享保十三年(一七二八)四月、八代将軍吉宗が日光社参を挙行する。将軍の日光社参は、四代将軍家綱の寛文三年(一六六三)以来六五年ぶりのことであった。吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫し、いわゆる「享保の改革」という政策が強行された。享保七年(一七二二)に窮余の策としてとられた「上米の制」は、諸大名に対し、一万石について一〇〇石を上納させ、その代わりに、参勤交代の江戸在府を半年に減ずるというものであった。この政策はかなりの実績を上げ、短期間で幕府財政を黒字に転ずるものとなった。しかしこれまでに例を見ない大名への課税であり、軍役としての参勤交代を半減するというものであったため、幕府権威が地に落ちた感は否めなかった。この情勢の中、幕府にも大名にも多大な負担を強いるこの一大イベントを行った背景には並々ならぬ吉宗の意図があった。

享保時代はすでに開幕以来、泰平の一〇〇年が過ぎ、武士本来の「兵」としての機能は要求されず、官僚化が進んでいた。特に五代将軍綱吉の「生類憐みの令」は、合戦で敵の首級をかき切ることが誉れとされた武士の「兵」としての本質を真っ向から否定し、重要な軍事訓練であった鷹狩は禁止となり、武士の軟弱化が進んでいた。ここで人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があった。将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への最大の軍役動員である日光社参は、武士の泰平慣れに一石を投じ、封建主従制の根源にあるご恩奉公の倫理を再確認させるための有効な手段であった。それは将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活につながる。それこそが吉宗の目指したものであり、幕府が更なる改革を強力に推し進めるための原動力となるものであった。日光社参挙行

この時の日光社参の規模は、供奉者一三万三〇〇〇人、関八州から徴発された人足二二万八〇〇〇人、馬三二万頭といわれる。費用は十代家治の安永五年(一七七六)の時の記録で二二万三〇〇〇両といわれ、この時もそれに匹敵するものであったと思われる。泰平の世では軍役動員、隊列編成に不慣れのこともあり、五日前に江戸城吹上で行軍演習が行われ、吉宗も閲兵している。

出発当日、四月十三日はあいにくの大雨であった。江戸市中主要な橋七ヶ所を閉鎖し、御成道筋は一切人留め、というかつてない厳戒態勢が敷かれる中、奏者番秋元但馬守喬房が午前〇時に先駆け、同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続く。吉宗は二〇〇〇人の武士に守られて午前六時に発駕した。最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前十時で、実に一〇時間を要する行軍であった。(『栃木県史』通史編4近世一九八一)

御成道筋の庶民には、「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」(『御触書寛保集成』石井良助高柳真三一九三四)というお達しであった。庶民はひたすら家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまであった。一行は、日光御成道の岩槻城・古河城・宇都宮城で宿泊し、十六日に日光山に到着する。十七日が家康の忌日で東照宮で祭祀が行われた。日下村領主本多豊前守正矩は祭礼奉行を命じられ、この日は将軍の補佐役として緊張の連続であった。まさに一世一代の大役、無事やり遂げて当然、そうでなければ進退にも関わる一大行事であった。供奉の大名たちそれぞれにとっても、事情は同じであったろう。一つ一つの儀式が、何人も犯すべからざる将軍と幕府の強大な権威を顕示していた。それへのひたすらな服従、それだけが生き残るために是非とも必要な最重要事項であると、誰もが感じたに違いない。吉宗の幕府権威の強化という大きな目的が叶えられた瞬間であった。一行はその後同じ道筋を通り、二十一日には江戸城に帰着している。

日光御用銀

日下村領主本多氏は、藩主本多豊前守正矩が日光社参に供奉と祭礼奉行を命じられたため、本多氏領分四万石の村々へ二〇〇〇両の御用銀を課した。その内容は、前年十二月三日条に、

下総弐万石へ金千両、  但百石に人足八人馬弐疋ツヽ

沼田壱万石へ金五百両 人足馬同断

上方壱万石へ金五百両 即御用に立不申候ニ付人足馬

ハ御免

とあり、河内領一万石に対して金五〇〇両で、河内村々一万石での割方を行い、石につき銀二匁七分となり、日下村石高七三五石で計算すると一貫九九〇匁となる。これは現代の金にして四〇〇万円前後であろうか。関東の領分では馬、人足もかけられているが、上方は遠方のため免除されている。十三年二月に村人から集めて蔵屋敷へ納められた。御用銀は利息を付けて返済されるものであるが、本多氏の財政困難の故か、その翌年から利息の支払いのみで、本銀の返済はなかった。

日下村の厳戒態勢

幕府は前月から日光社参に関する触書を頻発し、「火の用心、不審者警戒のため木戸・自身番の昼夜勤務と、奉公人の欠落(かけおち)防止、新規の奉公人の身元確認」を厳重に命じている。(『御触書寛保集成』)幕府にとって最も避けたい、この期に臨んだ民衆の不穏な動きを誘発させない配慮である。六五年ぶりの大行事であり、長右衛門と村人にとってもすべてが初体験であった。日下村では四月十三日出発の数日前から、廻状が続々と到着する。将軍が江戸城を留守にし、一〇万人の武士が従軍する日光社参がいかに非常事態であったかが分かる将軍の出発前の十日から、下村の中心を南北に貫く東高野街道の辻と、南隣の芝村との境の二ヶ所に番小屋を立てさせ、番人三助に昼夜警戒のため村中を見廻らせている。東高野街道という当時の一級国道や、村境は様々な人間が村へ入り込む可能性がある。諸勧進・物もらい・諸商人など村外のものの入村が禁じられていたから例を見ない厳戒態勢であった将軍が江戸城を出発されると、遠く離れた日下村にも一層緊張感が張り詰める。連日連夜、村役人である庄屋・年寄が会所に詰める。村中に火の用心を触れ廻らせ、不審者を見張らせる。大坂町中では鳴物停止令(なりものちょうじれい)」が出されたようで、芝居や普請がとまり、夜は町同心が警戒する緊迫の様子が廻状とともに伝わっている。これは「穏便触(おんびんぶれ)」ともいい、普請などの工事や芝居歌舞音曲の芸能を禁じるもので、いつもは賑やかな大坂の繁華街もひっそりと静まり返っていた。将軍が日光山に到着されると蔵屋敷からの廻状が続々と届く。「庄屋・年寄村役人の他出は厳禁、喧嘩口論・火の用心を慎み、物静かにつかまつ」とあり、日下村にも鳴物停止令」が出されたのである。村でのその規制は、音を伴う商売から家庭内労働にまで及ぶ。誰もが作業を取りやめて家の中で謹慎するしかなかった。四月二十一日には、「今日 還御相済候につき町中自身番中番共今晩より無用」(『御触書寛保集成』)の触書が廻る。将軍は日光社参を終え、無事江戸城へ還御となり、その夜から厳戒態勢解除となる。日下村でも連日の会所での警戒が終わり、長右衛門はじめ村人はほっと一息いれる。一汁二菜のささやかな朝食で無事祝いをして、一〇日ぶりにようやく自宅で寝ることが出来たのである。無事終了将軍帰還から六日遅れで、日下村領主本多豊前守正矩が日光から無事に江戸へ帰着された旨の廻状が届くと、早速翌日に長右衛門は蔵屋敷へお悦びに出る。何事があっても領主へのお祝い言上は欠かせない。この年の十一月、例年の通り年貢率を申し渡される「御免定御渡」のため、本多氏領河内二〇カ村の庄屋・年寄が蔵屋敷へ召集された。その折、日光御用無事終了の祝儀に領主から酒を賜わる。吸物・肴三種にて酒宴が催されたが、蔵屋敷で領民へのこうした接待は珍しいことであった。御用銀を負担した百姓への慰労でもあろうが、譜代大名で奏者番という幕府官僚の中枢にあった本多氏にとって、この日光社参がいかに一世一代の大行事であったかが伺われよう。将軍の日光社参という幕府の一大イベントが、生駒西麓の日下村の暮らしに与えた影響は大きなものであった。六五年ぶりの行事では長右衛門たちにとっても戸惑いは多く、蔵屋敷からのお達しに忠実に勤め、ただ何事も無く平穏無事に過ぎてくれることだけを願う日々だったに違いない。日下村という山里の小村にも村の要所二ヶ所に番小屋を立て、日夜番人に村中を見廻らせ、庄屋、年寄の村役人が連日会所で寝起きする。これまでに経験のない厳戒態勢である。庄屋としての長右衛門にとっても神経を張り詰めた日々であった。

 

 

 

日光社参の行列
日光社参の行列
船橋
日光お成り道

江戸時代の疱瘡

勝二郎疱瘡発病

日下村を大騒ぎに巻き込んだ将軍の日光社参もこれですべて無事終了のはずであったが、長右衛門にとって、この最中に大変な事態が持ち上っていた。それは日光東照宮で最も重要な祭礼が行われている十七日のことである。長右衛門家に飛脚が飛び込んでくる。大坂の小橋屋宇兵衛からの手紙で、大坂の商家野里屋へ養子に入っていた長右衛門の長男勝二郎が疱瘡発病という知せであった。この知らせは長右衛門家を震撼させる。

疱瘡は当時人々を恐怖に陥れた流行病であり、その死亡率は寛政七年(一七九五)の米沢藩の記録によると約三割に上る。長右衛門家の下女がこの年の二月に疱瘡を発病し、わずか六日で亡くなっている。長右衛門にとっては日光社参という庄屋にとっても大変な時期の長男疱瘡発病である。日光社参での警戒で、庄屋は他出を禁じられ、長右衛門は大坂へ見舞にも行けず、心労は深まる。

勝二郎の養子先の野里屋四郎左衛門家は近世初頭から質屋年寄を勤め、大坂三郷南組惣年寄を勤める名家であった。勝二郎は一一歳で養子に入り、この時一六歳であった。ついに二十日になって本多氏蔵屋敷役人田村清蔵へ勝二郎の疱瘡見舞を願い出る。日帰りで許された長右衛門は翌早朝より大坂へ下る。その途中寝屋川筋の角堂(現住道)で関所が出来ており、舟を乗り換えている。日光社参での警戒でこうした関所が要所に出来ていたのだろう。

内本町橋詰町の野里屋へ勝二郎を見舞う。畿内において疱瘡の伝染性さえ知られていなかったこの時代には、まだ疱瘡患者を隔離するという観念はなく、勝二郎は奉公人も多くいる野里屋で手厚い看護を受けている。勝二郎は一時的に熱が下がり発疹が水疱となっていたが、まだ予断を許さない。高価な高麗人参を与えて大坂の疱瘡専門の医者に治療させている。とんぼ返りで帰った長右衛門はすぐに会所に出て、警戒の陣頭指揮に当たっている。

十七日には、領主本多氏の殿様が無事帰国の廻状が廻り、翌日には、長男に再び高熱が出て病状が切迫する中、蔵屋敷へ殿様無事帰国のお祝い言上を済ませる。

六月に入り、日下村の喜八の息子が疱瘡で死亡する。抵抗力のない幼児はなす術もなく果てていった。勝二郎は一六歳という年齢もあってか全快し、長右衛門家は平穏を取り戻す。長右衛門にとっては、日光社参の警戒中の長男疱瘡発病である。いつの世も親が子を案じる思いに変わりはなく、庄屋という重責との狭間でその心痛は察するにあまりある。

しかし長右衛門はあくまでも冷静に行動し、普段通りに庄屋としての務めに励んでいる。しかもこの度重なる緊急事態にもかかわらず、彼の日記の記述は確かで、勝二郎の病状なども詳細を極め、その冷静で几帳面な性格をうかがわせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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