ふるさとよいとこ

ホームふるさとよいとこ

日下の丹波神社

ふるさとよいとこ

「日下の丹波神社と曽我丹波守の由緒」

近鉄奈良線石切駅の北口を出て、道を北に取り、突き当りの坂を下ると最初に出会う角に丹波神社があります。この神社は現在、石切神社の摂社となっていますが、地元の人々が大切に祭っているいわば村社です。
ご祭神は江戸時代の領主であった曽我丹波守古佑です。曽我丹波守は寛永11年(1634)に大坂西町奉行となり、その子の近佑とともに、28年間日下村を支配しましたが、その支配は善政といわれるものでした。
丹波守の行った検地は差出検地というもので、村人に有利なものでした。また急峻な山里である日下村は乏しい谷川だけでは足りず、多くの用水池に頼るしかなかったのですが、それでも旱魃の被害を受けることが多かったのです。
特に御所カ池は標高100㍍という高い位置にあるため、常に堤が崩れ、その補修が村人の大きな負担になっていました。この村人の困窮を見かねて丹波守はこの御所カ池の堤普請を「幕府普請」で行いました。これはその後の樋の付け替えや堤の修理なども幕府負担となるため、村人に大変感謝されるものになったのです。丹波守は、その堤の上に御所カ池の堤の上に砂留のための松の木を植えて補強し、この日下村へのこよない善政は村人の心に深く刻まれるものとなりました。
丹波守は明暦四年(1658)に亡くなりますが、その25年季に丹波守の人徳を偲んで、御所カ池の堤の上に丹波守の墓碑が建立されます。その墓碑には丹波守の善政が刻まれたのです。
後年、社殿を造り、その中に丹波守の墓碑を納めて、現在の地に祀られたのです。丹波守に対する村人の深い感謝の念は結実し、一時的な領地で水の神として崇められることになったのです。
丹波守は日下村庄屋であった河澄家や森家の「鳴鶴楼」と呼ばれた庭園も造営させ、この山里をことのほか愛して、森家でその晩年を過ごし、亡くなっています。
丹波守の時代から150年を経た寛政10年(1798)に日下村に隠棲した上田秋成は、丹波守が普請した御所カ池が田畑を豊かに潤し、村人に「国津宝」と呼ばれる様子をその随筆『山霧記』で紹介しています。丹波神社が水の守り神として村人に尊崇されてきたことを、この220年前の記述が伝えています。
地元では風流人であった丹波守の遺徳を偲び、毎年旧暦八月15日のお月見の日に、「名月祭」を行っています。平成10年には丹波守のご子孫にあたる方が、遠く神奈川県から「名月祭」に参加されました。350年ものはるかな時を越えて、神として慕われるご先祖を想い、村人と感動を新たにする場面となったのです。
農地が減少し、利用価値もなくなり、どこでも池が埋め立てられています。これまで村人が「国津宝」と大切にしてきた、丹波守とのゆかしい歴史を秘めたこの御所カ池も、時代の流れに抗することも叶わず、現在は埋め立てられて新しい家が建っています。
丹波神社「名月祭」
曽我丹波守由緒書
かつての御所カ池

日下新池 日下遊園地と健康道場

ふるさとよいとこ

 

日下新池 日下遊園地と健康道場

 

東大阪市でも最も北東に位置する日下の里は、生駒の山懐に抱かれて、まだわずかに緑が残された山里です。用水のための池も多く残されていましたが、最近はそれも埋め立てられていくようです。今残されている中でも最も大きい池が、石切駅から北西に少し坂を下ったところにある日下新池です。昔はその美しさから「天女ヶ池」と称えられたのです。

今も、山からの清らかな水をたたえ、白鷺や鴨などの水鳥も羽を休め、菖蒲やヒトモトススキ、堤には桜並木、秋の紅葉と季節ごとにあでやかな装いを見せてくれます。一年中訪れる人の絶えない地域の大切な憩いの場となっています。

この池の畔に大正時代に日下遊園地が造られたのですが、あまりに古いことで、この事を知っている方はほとんどいません。20年も前に、当時90歳の方にお聞きした日下遊園地のことを紹介しましょう。

大正三年に大阪電気軌道(株)(近鉄の前身)が生駒トンネルを開通させ、トンネルの西口に「日下駅」が出来ました。そのころは電車なんか初めて見る人ばかり、その電車に乗るにも子供たちが怖がって大変だったそうです。勿論トンネルなんて見たこともないというので、大勢の人々が見物に来るしまつでした。 その人をあてこんで、大正四年に地元の「日下温泉会社」が当時「天女ヶ池」と呼ばれていた日下新池一帯に「日下遊園地」を造ったのです。

池の北側の日下温泉旅館は茶色の洋館建で、モダンなもの、東側には木造三階建の「永楽館」北側の堤の下に「銀水」という料理旅館が立ち並びました。

春は花見、夏は東に迫る草香山の新緑を背景に、池でのボート遊びという趣向で、大阪市内からの客を引き寄せたのです。その上に、夜になれば、大阪市街の夜景が素晴らしいと評判になり、夏の夜の納涼大会が催されたのです。

大阪軌道は納涼割引券(33銭)を発売し、大々的に新聞広告まで打ちました。大正6年7月21日の朝日新聞には「冷蔵庫以上の涼しさ」と見出し、「日下の滝、噴水にたもとを払わせ、池の舟遊びも面白く、大阪市街の夜景は蛍火の如く」と大々的な宣伝文句。茶だんすや化粧品が当たるクジもつけて人々を呼び込んだのです。

夕暮れから大阪や奈良からの客が日下駅に降り立つと、まず駅前に噴水が水を噴き上げてまずびっくり、大阪軌道のハッピを着た社員が丁重なお出迎え、山腹には電飾の観覧車(実は大きめの水車で人は乗れない)が燦然と輝いて、目を見張らせます。

池へ下る段々畑には、熊・猿・孔雀などのミニ動物園があり、馬に乗って畑の中の馬場を一回りというミニ競馬場があって、特に子供が楽しめるような趣向になっていました。

今から見れば幼稚ですが、なにしろ100年も前のことですから、今のユニバーサルスタジオくらいの人気があったのです。夜になると、西の恩知川の方から「納涼!納涼!」と歩いてくる人波が延々と続いたそうです。「納涼」といえば日下遊園地のことだったのです。

日下温泉の舞台では、少女歌劇や水芸、奇術、落語と出し物も豊富で、二階では温泉上がりにお酒を飲んでダンスを楽しむ人もいたのです。野外では活動写真を上映し、噴水の回りでは太鼓や三味線で河内音頭や江州音頭を奏で、若い衆が大阪軌道の揃いの浴衣で踊りを競います。河内中の自慢の音頭取りが馳せ参じ、物すごい人出で賑わったのです。毎年催されるこの盆踊りは日下のトンネル踊りと呼ばれて有名になりました。「まめかち」「日下踊り」という踊りの手が大流行し、若い男女が毎晩のように踊りに出かけたのです。今も地元の盆踊りでは、最後に「日下踊り」を古い手を知っている人が踊ります。今の活発な踊りとは違い、のんびりした踊りだそうです。

その後、大正15年に大阪軌道が直営の「あやめ池遊園地」を開業し、さらに昭和四年に「生駒山遊園地」を開設すると、にわかに客足が遠のいていきます。賑わった日下新池のあたりも雑木林と田畑になってしまったのです。日下温泉会社も倒産し、建物も売りに出されました。

 

 

孔舎衙健康道場

 

昭和12年に吉田誠宏氏が売りに出された旅館を買い取り、この池の畔に新たなドラマが展開するのです。剣道の師範であった吉田誠宏氏はまだ治療法もなく、死病と恐れられた結核患者の悲惨な状況を何とか救いたいと、武道をもとに独特の鍛錬法を取り入れた治療法を考案し、旅館建物を改造して健康道場を開きます。これが孔舎衙健康道場です。

吉田氏は患者の療養に心血を注ぎ、患者は全国から押し寄せ、最盛期には100名近くもの患者を収容したのです。昭和16年この道場に京都一青年が入院してきます。太宰治に心酔し、小説などを書いていた文学青年でした。一時よくなって退院するのですが再発し、昭和18年に23歳の若い命を自ら絶っています。

この青年の孔舎衙健康道場での日々を綴った日記がその遺言により、太宰治に贈られ、太宰はこの日記をもとに小説「パンドラの匣」を発表したのです。太宰もその後、昭和23年に自殺しています。

この小説は健康道場での療養生活を友人に書き送る形式で、この青年をモデルに、介護にあたる若い女性補助員との青春物語です。この事実は京都在住の浅田高明氏がその著書で明らかにされたものです。その後、道場は戦中の物資不足で閉鎖となります。建物は荒廃し、長く草木に埋もれていましたが、今は跡地が整備されて公園になっています。

日下駅は大正7年に「鷲尾駅」になり、昭和15年には「孔舎衛坂駅」になります。戦時中は村の若者が出征していく時、駅前の噴水の前で最後の家族写真を撮って、別れを告げたのです。昭和39年には新生駒トンネルが開通し、孔舎衛坂駅は廃駅となり、南側の石切駅になりました。

古老のお話では、「この駅を降りたら細い山道しかなく、周りも田んぼだけ、キツネが出そうなところでした。夜は真っ暗な川筋に水車がゴトンゴトンと回っていて、怖いほどでした。今は道も広くなって昔の面影はどこにもおまへんなあ。」とのことでした。

この地の人々とともにあった日下新池、今日もさざなみのたつ水面に草香山の美しい緑を映しています。

 

 

 

 

 

 

日下遊園地 (新聞文化資料館提供)
日下健康道場(浅田高明「太宰治―探査と検証」)
現在の日下新池
お問い合わせ
ページの先頭へ