会報「くさか史風」第2号

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塩川家文書「由緒書」に見る大坂の陣 ー大坂の陣で豊浦中村家に家康が宿陣したー   浜田昭子

塩川家文書「由緒書」に見る大坂の陣

―徳川家康は大坂の陣で豊浦中村家に宿陣したことが証明された―                       
                                浜田昭子

はじめに

 塩川家は、近世を通じて河内郡水走村(みずはいむら)(現東大阪市水走)の庄屋を務めた家柄である。水走村は河内郡の西寄りを流れる恩知川の西にあり、北を今米村、南を松原村に接する南北に細長い村である。

現在水走地域には塩川家の御屋敷はなく、長年手掛かりはなかったが、平成29年になってご子孫が名古屋に在住されていることを知り、ご当主である塩川澄子氏に連絡を差し上げ、塩川家所蔵文書の閲覧はもとより、撮影も快く許していただくことができた。

 塩川家文書を調査するうち、塩川家の先祖が大坂の陣で戦死したという貴重な文書を発見した。それは河内では広く知られた、豊浦村中村家に、大坂の陣で徳川家康が宿陣したという由緒を証明するものであった。この文書によって、最近、疑惑の目が注がれていた中村家由緒の真偽に迫ることができるという確信があった。 

豊浦村中村家の由緒

ここでまず、豊浦村庄屋中村家に伝わる、大坂の陣の際の徳川家康との由緒を紹介しておこう。河内郡豊浦村は生駒西麓の山里で、東は生駒山頂から、西は恩知川で水走村に接する東西に細長い村である。豊浦村庄屋である中村四郎右衛門は、領主小林田兵衛の地方代官を務め、近世を通じて「中村代官」と呼ばれた。中村家と徳川家康との由緒は次のようなものである。

中村家に遺る享保年間の「佐々木鯰江家系」によれば、中村家の先祖は、江州佐々木氏の一族で、天文年間に江州から河内郡豊浦村に移り、中村四郎右衛門を名乗る。豊浦村における三代目中村四郎右衛門正教の時、大坂冬の陣において、自家屋敷を家康の本陣として提供し、家康側近である安藤対馬守・土井大炊助・酒井雅楽頭連名の花押がある枚岡郷への制札を拝領する。家康に若江・天王寺の道筋を御案内し、住吉迄供奉した。夏の陣でも家康の本陣となり、その功績により五月十五日には将軍より御刀を賜り、酒井雅楽頭より御墨付を頂戴した。

文久四年の「中村家先祖書」では、権現様が五月六日に中村家から出陣なされ、道筋をご案内し、その褒美として、御手ずから刀と御奉書・御盃を拝領した。五月五日の節句の祝儀に、河内木綿を「菖蒲木綿」として家康に献上したところ、「勝布」に通じるとしてことのほかのお悦びで感状を賜った。老中・大坂城代・定番・町奉行が巡見の際には当家に立ち寄り、宿陣の場所・御成りの間・拝領の品々を拝見になり、勝布木綿を献上する。

大坂の文人暁鐘成の随筆集で、安政年間成立した『晴翁漫筆』(『浪華叢書』第一一巻)によれば、中村家の拝領品は中村家屋敷内の宝庫に保管され、四月十七日の家康命日には近隣の人々に公開していたという。
 

中村家由緒への批判ー井上氏論文

しかし、これらの中村家の由緒についてはいくつかの疑問が呈されている。井上伸一「大坂の陣と菖蒲木綿ー河内国豊浦村中村四郎右衛門家由緒の検証ー『旧河澄家年報2 平成26年』」によれば次の4点である。 

1 一八世紀の史料「佐々木鯰江家系」に、御刀を賜ったのが将軍(秀忠)であったものが、一九世紀の史料では家康に置き換わっている。

2 『慶長見聞書』(『大日本史料』)では、冬の陣で十一月十六日に将軍秀忠が枚岡に止宿し、家康は法隆寺に止宿しているので中村家には宿陣していない。「河内国讃良郡河岡庄岡山邑御本陣之次第」(『四条畷市史』)によれば、大坂夏の陣の慶長二十年(一六一五)五月六日に家康は枚岡に本陣、秀忠が豊浦に本陣を置いているので、豊浦の中村家に宿陣したのは秀忠で、家康は枚岡郷の他村に宿陣したと考えられる。また家康の枚岡宿陣は五月六日であり、中村家の由緒とは一日のずれがある。

3 夏の陣の五月五日に中村四郎右衛門が家康に菖蒲木綿を献上したことに対する家康感状とされる文書は、献上品に対する礼状であって、「御内書」であり、大名・旗本宛の一般的なものであるが、宛名がないことから、大名か旗本に出されたものを中村家が入手し、宛名を裁断して自家宛の文書と偽った可能性がある。慶長二十年五月五日に徳川家康が中村家に止宿し、そこで四郎右衛門が菖蒲木綿を献上したという由緒は、一九世紀に入って史実に反して創り出されたエピソードに過ぎない。

4 酒井忠世の奉書は偽文書であり、中村家への秀忠の宿陣、刀の拝領、制札の下付についても、批判的な検証が必要である。中村家の由緒について、家康の宿陣を自明の前提として説明されてきたが、そのこと自体を問い直す必要もあろう。 

以上の点から中村家の由緒を根本から問い直し、疑問視するものとなっている。 

豊浦村中村家由緒の史的検証

ここでまず、根本の豊浦村中村家由緒を歴史的事実と比較検討してみよう。中村家での家康宿陣について、冬の陣と夏の陣に分けて他の史料と対比してみると、 

冬の陣

1『当代記』(史籍雑纂苐二 国書刊行会)

 「(慶長十九年)十一月十六日大御所昨日木津、今日法隆寺着御」「十一月十七日大御所住吉に御着」 家康は十六日法隆寺に着き、翌日住吉に到着している

2『慶長見聞集』(三浦浄心著 江戸史料叢書 巻の弐)

「(慶長十九年)十一月十六日大御所様法隆寺に御宿、今日将軍様(秀忠)は枚岡に御泊」

大御所(家康)は法隆寺に止宿し、将軍(秀忠)が枚岡に止宿とある。 

夏の陣

1『駿府記』(史籍雑纂苐二 国書刊行会)

六日(中略)大御所星田御逗留(中略)大御所俄御出馬(中略)大御所平岡御在陣

家康は枚岡で在陣とあり、秀忠の宿陣場所は記載がない。

2「河内国讃良郡河岡庄岡山邑御本陣之次第」(讃良郡河岡庄岡山邑高橋孫兵衛重之記『四条畷市史第一巻』)

「一、大御所様六日ニ平岡ニ御本陣 

二、新将軍様ハ同夜豊浦ニ御本陣」

讃良郡岡山村の高橋孫兵衛の記したもので、家康は枚岡、秀忠は豊浦に本陣となっている。

3「河内国讃良郡甲可荘岡山村御本陣由緒」(甲可庄岡山茂兵衛記『四条畷市史第二巻』)

 「大御所家康公星田御在陣、甲可山江着(中略)夫より平岡着御と云々(中略)甲可山津桙(つぼこ)神社ノ社地ニ家康公御休み所ニ被遊、同年五月六日也」

岡山村茂兵衛が記したもので、「夏の陣で星田に在陣した家康が五月六日に甲可山津桙神社で休み、その後、枚岡に到着」と記している。 

冬の陣の際には秀忠の枚岡宿陣となっており、家康は枚岡に宿陣していないが、中村家由緒では冬の陣・夏の陣ともに家康が宿陣したとする。ここに史料との相違がある。

夏の陣の史料ではいずれも、家康が五月六日に枚岡に宿陣となっている。2では大御所は平岡、秀忠は豊浦に宿陣とある。徳川実紀では駿府記を引用して「両御所ともに平岡に御陣あり」とあるが、駿府記には上記のように、秀忠の宿陣場所の記載はない。ただ、先行研究によれば、家康・秀忠ともに枚岡に宿陣と考えられている。

家康への木綿献上によって賜った御内書と、酒井雅楽頭の御刀の奉書の真偽については、天野忠幸先生(天理大学准教授)によれば偽書の可能性が大あるとのことで、井上氏の「中村家による家康への木綿献上という事は一九世紀に入って史実に反して創り出されたエピソードに過ぎない」という説は納得できる。

結論として、中村家由緒は歴史的観点からは矛盾が多く、整合性に欠けると言わざるを得ない。 

塩川家由緒書 

塩川家由緒書を検討したい。塩川家に遺されていたのは、安永三年(一七七四)に領主曽我又治郎に差し出した嘆願書である。嘆願といっても村方からのものではなく、当主の塩川多田右衛門から領主に対して自家の救済を願うものである。前半には、豊浦村庄屋中村四郎右衛門家に大坂の陣の際に徳川家康が宿陣した折、塩川家先祖が家康に忠節を尽くして戦死したこと、後半には、水走村における曽我丹波守の事績が記載されていた。いずれも、これまでの河内の文献には出てこない新しい事柄であり、貴重な史料である。嘆願書とはいうものの、内容を勘案して、ここでは由緒書としておきたい。 

   (前破損)                 水走村 塩川多田右衛門

一大坂 御陣之節、私より六代以前之祖、塩川佐左衛門と申者、伯父与七郎と申者籠城仕候と引分し、御味方江志深ク御座候ニ付、権現様豊浦村御宿陣被遊候節、西之手御堅メとして、藤堂(遠藤)但馬守様・小林田兵衛様私屋鋪ヲ御陣所ニ相成り候ニ付、右佐左衛門酒肴ヲ調、豊浦村御陣所江馳参、大坂之様子、近郷之道筋案内被遊 御聴、近辺不残籠城仕候砌、壱人相残味方江志奇特成者と被仰、御紋附之御流 御土器頂戴仕、手負ニ無之候はゝ、道筋御案内可申付候得共、御暇被下、在所江罷帰、相果申候由申伝ヘニ御座候

右 御紋附之 御土器尓今所持仕候事

一冬 御陣之節大坂方より摂河両国之間、山林竹木ヲ伐取、在家は不及申、神社仏閣迄不残焼払候得共、私家計ハ樹木共佐左衛門防キ相残り御座候ニ付、古木之松ヲ御味方之目当ニ相成り申候由、申伝へ罷在候、但右佐左衛門儀大坂方より在々焼払之節、雑人ヲ防キ手ヲ負候得共無難家ヲ為焼不申、樹木ヲ為伐不申、手疵ヲ不厭、豊浦村御陣所へ馳参、昼夜共番等仕候ニ付、右之手重り相果申候申伝候

一殿様 御先祖 丹波守様大坂町御奉行被為 成候砌、水走村ニテ七百七拾石余御知行所ニテ御座候ニ付、右由緒有之候家筋ニテ御座候得ハ、度々 御成被遊、屋鋪地之内ニテ弐百四拾坪 御免許ニ成被下、築山泉水等、御物好ニ御築被為遊候事

一御領分川表水除堤御普請被 仰付、為根堅メ松之樹御植被遊、則右松之樹佐左衛門世忰五郎左衛門拝領仕、尓今拾弐本相残、御料・私領共堤四丁ヶ間私支配仕罷有候、其上大坂於相生町屋鋪地可被 下置之御内意ニ候得共、其時節は田畑多所持仕、殊ニ五郎左衛門儀、若輩ニテ病身者之儀ニ御座候得ハ、辞退申上候処、却テ無欲成者と被仰、江戸表江罷帰候はゝ、右由緒 御老中迄も可被 仰達候間、何ニテも相願可申と被仰出候由、申伝へ罷有候、無程 丹波守様御儀日下村長右衛門と申者之於宅被遊 御逝去、則日下村ニ御石碑建申候事

一其後丹波守様御次男又兵衛様江高五百石、丹後((波))守様江百九拾石余於当村御分地相成候節、私家も御分地付ニ相成可申之処、右由緒も有之候得は、残り高ニ候得共、御本家様付ニ罷成り可申旨、御家老様より御申渡被成候事

   右之由緒共申伝計ニ御座候得共、御紋附之 御土器并御目当松、丹波守様 御築被遊候泉水之大石共は外より伝へ可申様も無御座候間、御代更之節御役人様迄奉申上候、其後宝永年中大地震ニテ右丹波守様御入被遊候座鋪御茶之間悉ク崩レ嘆ヶ敷奉存候、其上祖父傳右衛門と申者之代ニ至不慮之儀ニテ、

   殿様御仕送り御断申上、逼塞仕候ニ付、家勢も衰へ家督等も減シ、年々困窮仕、只今ニテは漸々妻子眷属共飢ヲ凌候計り之儀ニ御座候、尤右由緒も御座候得は、 殿様御代々被為 懸御目候家筋ニテ御座候間、何卒以御慈悲私家退転不仕候様、乍恐御憐愍之程奉願上候、以上

    安永三甲午年 正月     河刕水走村   塩川多田右衛門

曽我又治郎様    

    御役人様                (塩川澄子氏所蔵) 

塩川家由緒書の検証 

1 家康の豊浦村宿陣 

一大坂 御陣之節、私より六代以前之祖、塩川佐左衛門と申者、伯父与七郎と申者籠城仕候と引分し、御味方え志深ク御座候ニ付 権現様豊浦村御宿陣被遊候節、西之手御堅メとして、藤堂((遠藤))但馬守様・小林田兵衛様私屋鋪ヲ御陣所ニ相成り候ニ付 

大坂の陣の時に六代前の塩川佐左衛門は、伯父の与七郎が大坂方に味方して籠城するのに別れて徳川方に味方した。豊浦村中村家に権現様、つまり家康が宿陣した際、付き従った遠藤但馬守・小林田兵衛が塩川家に宿陣したという。由緒書には藤堂但馬守とあるが、これは遠藤但馬守の誤りである。中村家の「慶長元和年間御宿陣御由緒書」の第三条に、 

一明石掃部平岡筋欠落イタシ候ニ付、遠藤但馬守様ト小林田兵衛殿江尋出シ候様被 仰付、是又私家ニ御滞留 

とあり、この両名は大坂方の敗戦後に、枚岡方面に逃亡した明石掃部などの大坂方の落人探索のために、中村家に逗留したとなっている。また、同史料の第一条に、 

一御陣之砌、豊浦村ト水走村之境、恩知川ニ掛リ候橋ヲ、遠藤但馬守様ト小林田兵衛様両人ニテ御堅メ有之候 

とあって、この両名が恩知川にかかる橋を警固したという。奈良街道沿いの水走橋である。塩川家の屋敷はこの橋を西に渡った恩知川沿いにある。この両名がこの橋を警固するためには、東の山の手にある豊浦村まで坂道を約二㌔も登って中村家に逗留するよりも、恩知川のすぐ西に位置する塩川家に逗留するほうが近くて便利だったはずである。

塩川家由緒のこの部分が大坂の陣とあるだけで、夏の陣とも冬の陣とも記していないが、大坂方の敗戦後に落人の探索のために水走橋の警固に当たったものであり、夏の陣でのこととなる。

中村家由緒ではこの両名の逗留を中村家としているが、塩川家由緒は、塩川家逗留としており、中村家にはない事実を記載しているところから、この由緒が同家で代々言い伝えられてきた独自のものであるということができる。 

2 家康への忠節と土器の拝領 

右佐左衛門酒肴ヲ調、豊浦村御陣所え馳参、大坂之様子、近郷之道筋案内被遊 御聴、近辺不残籠城仕候砌、壱人相残味方え志奇特成者と被仰、御紋附之御流 御土器頂戴仕、手負ニ無之候はゝ、道筋御案内可申付候得共、御暇被下、在所え罷帰、相果申候由申伝ヘニ御座候

右 御紋附之 御土器尓今所持仕候事 

塩川佐左衛門が酒肴を調えて豊浦村の陣所へ馳せ参じ、大坂の様子や近郷の道筋の案内をするのを家康がお聞きになり、近辺でも大坂方に味方するものの多い中、塩川家のみ徳川方に味方するのを奇特なる者と仰せられて、お流れを頂戴し、紋付の土器(盃)を頂戴した。その盃は今も所持しているとある。佐左衛門は手負いの身で、実際の道筋へのご案内は出来ず、在所へ帰り相果てたとある。

河内では豊臣氏のおひざ元であり、大坂方に味方するものが多かった。日下村庄屋森家の先祖若松市郎兵衛は、 

大坂籠城の折、秀頼公へ召し出され、木村長門守の鉄砲方二〇人預り(森家先祖書『枚岡市史』第四巻 史料編) 

とあり、大坂方に付いている。しかし、塩川佐左衛門は叔父与七郎と袂を分ってでも家康方に味方したのである。しかしここで、豊浦村御陣所とあるだけで、家康とも秀忠とも記していない。『慶長見聞集』によれば冬の陣では秀忠が枚岡に宿陣し、家康は枚岡に宿陣していない。塩川家の過去帳によれば「元和元年四月二十八日 道清 塩川佐左衛門重長」とあり、塩川佐左衛門は冬の陣の翌年に死去している。夏の陣で家康が豊浦中村家に宿陣したのは五月六日のことで、塩川佐左衛門が亡くなってからのことである。

ここでの冬の陣では豊浦陣所には秀忠がいたということになる。塩川佐左衛門と家康との接触はなかったはずである。しかし、この文書が記された安永年間に、この文書を認めた人物が、大坂の陣の当時の新将軍や大御所の行動を正確に把握することはできなかったはずである。長年伝えられた由緒においては、将軍となれば、それは家康以外になかったのである。 

3 塩川佐左衛門の戦死 

一冬 御陣之節大坂方より摂河両国之間、山林竹木ヲ伐取、在家は不及申神社仏閣迄不残焼払候得共、私家計ハ樹木共佐左衛門防キ相残り御座候ニ付、古木之松ヲ御味方之目当ニ相成り申候由、申伝へ罷在候、但右佐左衛門儀大坂方より在々焼払之節、雑人ヲ防キ手ヲ負候得共無難家ヲ為焼不申、樹木ヲ為伐不申、手疵ヲ不厭、豊浦村御陣所へ馳参、昼夜共番等仕候ニ付、右之手重り相果申候申伝候 

冬の陣の際には大坂方より摂河両国の山林竹木を刈り取り、在家から寺社仏閣に至るまで残らず焼払ったが、塩川家のみは佐左衛門が防いで樹木と共に残り、その古木の松を味方の目印とした。佐左衛門は大坂方が焼払う際に雑人を防ぎ、手負いとなりながらも屋敷を焼かせず、樹木を刈らせず、負傷した身を厭わず、豊浦村陣所へ馳せ参じ、昼夜共に警戒に当たっていたが、重傷のために相果てたとある。この記述は冬の陣のことであり、史実と照らし合わせても整合性がある。 

次には、領主曽我丹波守との由緒が述べられている。日下村での曽我丹波守の事跡とも符合するもので、水走村でも、曽我丹波守が領主として、支配村の水利灌漑に尽くしていたことが分かるものになっているが、今回はそれは取り上げず、大坂の陣に関することのみの検証としたい。 

この由緒には、かなり詳しく具体的な記述が続き、大坂の陣より一五九年後のこととはいえ、誇りとして言い伝えてきた先祖の家康への忠節を書き上げたもので、豊浦村中村家における徳川家康の宿陣を傍証するものとなる点で貴重である。 

水走村塩川家由緒の真偽 

塩川家由緒には、中村家由緒と似通った部分があり、塩川家が中村家の由緒を自家に取り込んだのではないかという疑問が起こってくる。中村家の家康との由緒は河内村々では知られた事実であった。中村家の「佐々木鯰江家系」にも記載があるが、享保十三年、中村四郎右衛門正敏が江戸に下り、領主の小林田兵衛より、中村家先祖の権現様への忠節の由緒により、持高より一〇石を永々免許するという御書を頂戴していることは日下村の庄屋森長右衛門の記録した『日下村森家庄屋日記』にも記載されている。安永三年というこの時点において、塩川家でも大坂の陣での家康の中村家宿陣は周知の事実であった。塩川家由緒はそうした河内での言い伝えを自家に取り込んだものであろうか。その内容を整理してみると、 

1遠藤但馬守・小林田兵衛が塩川家に宿陣したこと

2佐左衛門が盃を拝領したのは、河内では豊臣方に味方するものが多い中、関東方へ味方したためであること

3豊臣方の焼き払いにも佐左衛門が防いで塩川家のみは樹木と共に残り、その古木の松を味方の目印としたこと

4佐左衛門は負傷しながらも、豊浦村陣所で昼夜共に警戒に当たっていたが、重傷のために相果てたこと 

以上の四点で、大坂の陣の際の、塩川家独自の具体的な事柄を詳細に描写している。しかも、佐左衛門の戦死は、塩川家の過去帳に確認できる事実である。塩川家由緒は中村家由緒を取り込んだものではないといえるだろう。

その上に曽我丹波守の事績が、これまで言われてきた日下村の森家と河澄家のみならず、水走村の塩川家でも同じような事績が残っていたということは、この文書によって証明された新しい事実である。曽我丹波守が、領内の水利設備を充実させて領民の辛苦を除く仁徳あふれた領主であり、豪農の庭園を造営する風流人であったことは、すでに日下村での事績で証明できる事実である。

しかも水走村の川の堤四丁の支配を塩川家が任されたことや、曽我氏の兄弟で分けられた石高など、村方文書で確認できる非常に詳細で具体的な内容を記している。以上のことから塩川家由緒書は何らかの他の史料から引用して偽造されたものではなく、塩川家独自で言い伝えられてきた由緒であるということができる。 

塩川家由緒の史的検証 

 塩川家由緒を検討すると、その内容には明らかな矛盾がいくつか見られる。まず、「権現様豊浦村御宿陣の節に、豊浦村御陣所へ馳参じ、そこで盃を拝領し、手負いのために在所へ帰り相果てた」とある。家康の枚岡宿陣は夏の陣でのことであるので、佐左衛門は夏の陣での負傷で死亡したことになる。次に、「冬の陣の際には大坂方より焼払ったが、佐左衛門は手負いとなりながらも屋敷を焼かせず、豊浦村陣所へ馳せ参じ警戒に当たっていたが、重傷のために相果てた」とある。ここでは冬の陣での負傷で死亡したとある。 この記述自体に矛盾がある。しかも、前述の史料『慶長見聞集』では、冬の陣で中村家に止宿したのは秀忠であり、家康から盃を拝領したとあることと矛盾する。

塩川家の過去帳を確認すると、塩川佐左衛門は元和元年四月二十八日の死亡となっている。しかし、四月二十八日には家康はまだ枚岡に来ていない。佐左衛門は、慶長十九年の冬の陣で負傷し、それが原因で翌年四月に亡くなったのであろうか。しかし、冬の陣で枚岡に止宿したのは秀忠であり、家康から盃を拝領するはずがない。塩川家由緒は以上の点で整合性がなく、冬の陣と夏の陣との混同が見られる上に、過去帳の記載とも合致しない。塩川家由緒は、歴史的観点からは問題が多いと言わざるを得ない。この由緒の安永三年は大坂の陣から一五九年を経ており、ただ家康との関わりだけを重視するあまり、歴史的事実と乖離していったと考えられる。 

井上氏批判の問題点

中村家由緒への井上氏の批判について検討してみると、次の問題点が認められる。 

1一八世紀の史料「佐々木鯰江家系」に、御刀を賜ったのが将軍(秀忠)であったものが、一九世紀の史料(文久年間)「中村家先祖書」では家康に置き換わっているとされるが、「佐々木鯰江家系」では、将軍・大樹をすべて家康と解釈して書かれており、明白に秀忠を指す表記はない。この史料が作成されたのは享保年間であり、大坂の陣の際の将軍が秀忠であり、家康は大御所となっていたというような、歴史的事実を認識していたとは思われない、この部分を歴史的な観点から判断することは危険である。井上氏の疑問は、現代の歴史的な観点から将軍・大樹をすべて秀忠と認識しておられるので、この疑問が起こってくるのである。 

2夏の陣で豊浦村中村家に宿陣したのは秀忠であり、家康は枚岡郷内の他村に宿陣したとされる。しかし、中村家がこれだけ江戸期を通じて、家康との由緒を公表し、拝領品を近郷の人々に公開し、老中はじめ幕府官僚の巡見の際には中村家に立ち寄るのである。実際に家康が宿陣した村や家が他にあるとすれば、そうしたことを黙って傍観していたとは考えにくい。家康が宿陣したのは当村であり、当家であると主張したはずである。しかしそうした主張をした村も家もない。

「佐々木鯰江家系」には、家康の宿陣を「小林田兵衛内縁を以て」としており、家康家臣の小林田兵衛が、中村四郎右衛門と江州で親交があったという縁で中村家での宿陣となった。家康が星田に宿陣した時、星田は家康家臣市橋下総守長勝の所領で、長勝が大坂方の焼払いをよく防いで敵の侵掠にあわず、よって家康の宿陣となったという。(『徳川実紀』台徳院殿御実紀巻丗六)

大坂はいわば家康にとって敵地であり、河内でも大坂方に味方するものが多く、どこから大坂方の攻撃があるやもしれず、危険であった。家康家臣の支配の及ぶ確かな村でこそ家康の安全が保たれるのである。中村家以外に、家康が宿陣できる家が枚岡にあったとは考えにくい。

3中村家由緒には歴史的観点からは矛盾が多く、だからこそ井上氏は「中村家の由緒について、家康の宿陣を自明の前提として説明されてきたが、そのこと自体を問い直す必要もあろう」と結論づけられた。しかし、歴史的に矛盾があるという理由で、由緒の根本である家康の宿陣ということ自体までも切り捨ててしまっていいのだろうか。 

由緒をただ歴史的観点からだけ見て断じると、その本質を見失うことになる。由緒は確かにあった何かを伝えていく過程で、時代の制約や、人の様々な思いによって、歴史的には誤った記録となるもので、その虚構を認めながらも、そうした由緒が伝えられてきた意味と、その時代背景にこそ目を注ぐ必要があるのではないだろうか。

結論 

中村家由緒も、塩川家由緒も共に、歴史的事実として判断するだけの整合性には欠けている。ただ、『駿府記』のような大坂の陣の時代の一次史料はじめ、多くの史料が枚岡での家康の宿陣を示し、先行研究もそれを認めているのであれば、枚岡での家康の宿陣は歴史的事実と判断できる。 

塩川家由緒には「大坂御陣之節、権現様豊浦村御宿陣被遊候」とあり、前述のように、豊浦村ということは、すなわち中村家と考えて問題はない。塩川家由緒は、家康が確かに豊浦村の中村四郎右衛門家に宿陣したということを傍証する役目を果たしたといえる。

他の村にもそのような事実がある。冬の陣の際、家康は西成郡本庄村の庄屋足立家に休息したことで、安永五年(一七七六)に同家屋敷内に東照宮が勧請された。夏の陣で家康は交野郡星田村の庄屋平井家に宿泊した。江戸期を通じて平井家では、家康の命日に東照宮の祭礼を執り行ったという。(北川央『大坂城と大坂の陣』次項41㌻参照)

大坂の陣の際には大御所であった家康の権威は、その没後から、「東照大権現」という神にまで高まることになる。東照神君家康を絶対的存在として、幕府権威の頂点に君臨させることで、幕藩体制は盤石なものとなった。その権威は江戸期を通じて益々高まっていく。足立家でも平井家でも「東照大権現」を崇拝し、塩川家が家康との由緒によって自家の救済を願い、中村家に老中などの幕府官僚が立ち寄るのも、その大きな権威にひれ伏すためである。中村家の文久年間の「中村家先祖書」では確かに権現様となっている。

中村家における家康の宿陣は、これ以上ないほどの大きな名誉となった。そこで「御内書」や「御刀之奉書」といった文書を偽造してでも、物語性たっぷりの趣向を凝らした華麗な由緒として後世に伝えようとしたのだ。井上氏のいう「中村家由緒は十九世紀に入り家康との関係が強調されるようになった」のはこの構図ゆえであった。こうして由緒は虚飾をまとい、疑惑を招き寄せることになった。しかしその虚飾の部分こそが、幕府権威の根源が民衆の価値観の頂点に据えられたことを物語る。

両家の由緒から我々が読み取ることができるのは、家康の豊浦村中村家宿陣という事実が、確かにあった史実であることが証明されたということ、そして、当時の人々が神となった家康という、江戸時代最大のヒーローに、畏れともいうべき敬慕の念を抱いていたということである。 

由緒というもののもつ危うさ、虚構というものを抱えながらも、河内において、中村家と塩川家という豪農に、大坂の陣における家康の宿陣という事実が、永々と伝えられてきた意義は大きいものがあろう。

先人たちが大切に伝えようとした由緒、そこに込められた想いは、後世の我々が、しっかりと受け止めていくべきではないだろうか。

大坂の陣石碑
豊浦中村家屋敷跡
水走村塩川家屋敷跡

日下丹波神社 曽我丹波守墓碑銘について      浜田昭子

日下丹波神社 曽我丹波守墓碑銘について   

                  浜田昭子 

 丹波守は寛永十一年(一六三四)に大坂西町奉行となり、その子の近佑とともに、二八年間日下村を支配したが、その治世は前項で述べたように、日下村民にとってこよない善政といわれるものであった。丹波守は明暦四年(一六五八)三月に奉行職を辞し、日下村に隠棲し、翌月四月二十一日に亡くなっている。

日下村ではその遺徳を偲び、天和二年(一六八二)の丹波守の二五年忌に御所カ池の畔に墓碑を建立し、その後、その墓碑を社殿の内に祀り、水の神として崇めてきた。それは何よりも丹波守が御所カ池の堤の改修を、領民への負担のない幕府普請で行い、日下村民への篤い恩恵となったことへの感謝の想いからであった。

現在も丹波神社の社殿内に大切に祀られている丹波守の墓碑は、碑銘の拓本の表装が丹波神社の社務所の床の間に懸けられている。今回、丹波守に関する最も古い史料である、この墓碑銘を検討してみたい。日下町自治会のご協力により、この拓本の写真を撮影させていただき、その碑面の検討に取り組んだ。

拓本の碑面は著しく摩耗しており判読は困難を極めた。その上に儒学系の難解な漢字が使われていて、我々には何とか文字の確定ができても意味が不明であった。以前よりご指導を仰いでいる皇学館大学の白山芳太郎教授のご教示を仰ぎ、当会会員山路孝司氏に翻刻と解説をお願いした。

 この碑銘文については、『大阪府史蹟名勝天然記念物』第三冊(昭和三年 大阪府学務部)に「曽我丹波守碑」として翻刻が収録されているが、それにはいくつかの誤りと思われる箇所が発見されたので今回この墓碑銘の、より正確な翻刻を試みたので、ここに示しておきたい。46㌻にその内容を挙げた。読み下しにおいて、なお錯誤もあろうかと思われるので諸賢のご教示を仰ぎたい。

 特に碑面の文言の解明であるが、表面の「戊明暦四稔」とある「稔」は同じ音から借字した「年」である。側面の最後の「夓仲呂念一烏」は、一番上の字を『大阪府史蹟名勝天然記念物』では「春」としているが、白山先生は「夓」と読まれて、これは夏の異字であるという。

丹波守の亡くなった四月は旧暦では夏である。仲呂は陰暦四月の異名で、その下の念は、「廿」の俗音が「ネン」に近いので、そこからの借字で「廿」であり、一番下の烏は太陽で、「日」を意味するという。その上の「念=廿」と続けて「廿一日」となる。つまりこの部分の意味は、「夏四月二十一日」となり、丹波守の命日ということになる。

 内容的には、曽我丹波守が大坂西町奉行として日下村民に慈悲深い賢政を敷き、民衆のために尽くしたことが記されている。「務勤以於車水」とあるのは水利に努力したことと考えられ、これは御所カ池の修復のことを指している。「作兵衛宅殞滅痕也」とあるのは作兵衛宅で亡くなったということで、村民は嘆き悲しみ、涙を拭って平山の林中に葬り、天和二年の二五回忌に「少林院殿廓然是聖居士覚霊位」としてその事績を刻んだ石塔を建て、その善政の恩に報いたとある。最後に

日下村 川角作兵衛                             

森 道誓                                                     

惣中  

とあり、川角は天和二年当時日下村の庄屋であった河澄作兵衛であり、相庄屋である森道誓とともに村を代表してこの石塔の建立に携わったことがわかる。ただ碑文を撰したのが誰であるかを探ると、森道誓の孫である長右衛門貞靖(天和二年生まれ)の墓碑銘には、

 

少にして学に志す。郷人大戸子なるものに従ふ。洙泗の旨を聞くに與(あず)かる。この時なり。(「洙泗」は儒学のこと)

 

とあり、森長右衛門が幼少の頃から大戸氏に儒学を学んだことがわかる。大戸氏とは日下村東称揚寺の住職のご先祖にあたる。大戸氏が日下村で儒学を講じていた人物であれば、この碑文にも大戸氏が関わったことも考えられる。しかしそうだとすれば、大戸氏の名が刻まれる筈であるが、墓碑銘にその名はないので、確定はできない。

丹波守の終焉の地については、前項で述べたように、塩川家文書には日下村森長右衛門宅とあり、上田秋成の『山霧記』でも森家としている。おそらく日下村で隣り合っている森家と河澄家のどちらにも滞在したものと思われるが、丹波守の死後二五年忌の天和二年という早い時期の記録を正しいとすれば、丹波守は河澄家で亡くなったということになろう。どちらにしても、丹波守は日下村でその生涯を終えたことは確かな事実である。

丹波守は一時的な領地で神となり、今なお丹波神社の祭神として日下町民の尊崇を集めている。丹波守が、河澄家と森家の庭園を造営した風流人であることから、その人徳を偲んで、毎年お月見の日に丹波神社で「名月祭」を挙行している。平成十年には、丹波守のご子孫にあたる方が遠く神奈川県から「名月祭」に参加され、三六〇年を越えて神となって今なお崇められるご先祖を偲び、村人とともに感動を新たにする場面となった。

現在、丹波神社は石切神社の御旅所となっており、毎年夏と秋の石切神社の祭礼の際には丹波神社に御神輿と太鼓台が宮入をする。また、大晦日から元旦にかけて、日下町自治会役員が、丹波神社境内でかがり火を焚き、除夜の鐘が聞こえる頃から大勢の参詣人を迎え、本殿の前に行列して拝礼する人波の整理や、御札や破魔矢を求める人の世話にあたっている。参詣の人波はとぎれることなく、日下町民の崇敬の念の深さを伺うことができる。

森家は明治期に退転しその屋敷はなくなっているが、河澄家の屋敷は東大阪市に寄付され、現在「旧河澄家」として公開されていることは、市民にとって大きな恩恵である。

丹波神社へ宮入
曽我丹波守墓碑銘拓本 丹波神社社務所

新発見の家康画像について   浜田昭子

個人蔵 大阪城天守閣寄託

徳川家康画像について

 

大阪城天守閣二〇〇一年テーマ展図録『描かれた人々』に、葵の紋付の鎧の上から陣羽織をはおり、床几に坐した家康画像が掲載されている。この画像は現在、古美術の収集家が所蔵されており、大阪城天守閣寄託となっている。

大阪城天守閣北川央館長によると、その裏には、文政六年(一八二三)八月付けの、大坂・谷町代官の辻守訓の認めた裏書があり、この画像は豊浦村・中村四郎右衛門家にあった画像を中村家当主が模写したものであるという。ただ、中村家が途絶えたあと、その伝来史料は親戚の京都・柏原家に移っているが、この画像は柏原家にはないので、中村家に伝来したものではない。

大坂夏の陣の際に家康が宿陣した中村家には、家康を描いた画像が伝来し、代官辻守訓がその写しを所望したために、中村四郎右衛門が模写して贈ったものではないかと北川館長は推測されている。

北川央「『大坂城と大坂の陣』その史実・伝承」には、

 

大阪市北区豊崎の豊崎神社には東照宮が祀られる。この東照宮はもともと西成郡本庄村の庄屋・足立家の屋敷内に祀られていたもので、明治十一年同家が衰退したため豊崎神社の東南の地に遷座し、同四十年同宮の末社になった。足立家には慶長十九年大坂冬の陣の折に、徳川家康が立ち寄って休息したといい、その由緒から安永五年(一七七六)に同家屋敷内に東照宮が勧請されたと伝えられる。

大坂夏の陣の慶長二十年五月五日に、家康は京都二条城を発し、河内星田村に宿陣している。この時家康本陣となったのが星田村庄屋の平井家で、家康の宿泊した所を「権現様御宿陣御殿跡」として大切に保存し、毎年四月十七日に東照宮の祭礼が執り行われた。

同年五月六日家康は豊浦村中村家に宿陣している。家康との由緒から星田村平井家でも、豊浦村中村家でも、邸内に東照宮を祀っていたと考えて間違いない。

 

と述べられている。そして中村家の家康画像は、邸内の東照宮で神像として祀ってきたものとされている。家康が休息した本庄村の庄屋足立家の屋敷で、東照宮が祀られていたのであれば、家康の宿陣した豊浦村中村家でも東照宮が祀られていたことはあり得る。 

皇学館大学の神道学科教授白山芳太郎先生によれば、

 

東照宮は武家の信仰で、大名が祀るものであり、一般の庶民が邸内社として祀ることは許されなかった。許されていたのであれば、家康との特別の由緒によるもので、大変珍しいといえる。

 

とのことであった。

中村家の史料の中の「慶長元和年間御宿陣御由緒書」に「中村四郎右衛門居宅之図」として、屋敷の中の御成りの間、駒繋ぎの松、宝庫などの位置を示しているが、東照宮は見当たらない。しかも、数点の中村家史料の中に、幕府から許されて東照宮を勧請したという記述もない。もし東照宮を勧請していたのであれば、それは中村家にとってこの上ない大きな名誉であり、書き落とすことは考えられない。ただ、この家康画像の辻守訓裏書によって、家康画像の原本を中村家が所蔵していたということは確かである。その大事な神像が史料として伝わらなかった理由は定かではない。

中村家に東照宮の存在は確認できないものの、神となった家康の画像を、ただ宝庫の中で所蔵するだけでは恐れ多いことであり、座敷内か、或は宝庫の中で丁重に祀っていたと考えることはできる。

中村家の史料を詳しく掲載している『枚岡市史』史料編にもこの家康画像はなく、これまで知られていなかった中村家の家康画像の存在が明らかになったのは、河内の郷土史にとって貴重な発見といえる。

中村家が家康画像を神像として祀っていたのは「東照大権現」という、神となった家康との由緒を重んじたためであり、谷町代官辻守訓が中村家を訪れ、家康画像を模写してまで所望したのは、それだけ江戸時代における家康の権威が並々ならぬものであったことを示している。

 

 

 

 

家康画像 大阪城天守閣蔵
中村家屋敷図 『枚岡市史 第四巻 史料編』

生駒山人・孔文雄 野里屋養子時代の修学  山路孝司

生駒山人・孔文雄 野里屋養子時代の修学 

ー懐徳堂通学の可能性ー

                    山路孝司 

 生駒山人が十一歳で大坂の商家野(の)里(ざと)屋(や)に養子に入って以降の修学について考えたい。孔文雄関係年譜を作成していて気づいたのは大坂の学問所「懐徳堂」通学の可能性である。

☆亨保七年(一七二二)壬寅 十一歳で野里屋四郎左衛門の養子となる。

 野里屋は内本町橋詰丁(現 大阪市中央区内本町)にあった。

☆亨保九年(一七二四)甲辰 十三歳の時、十一月に懐徳堂が開校、三宅石庵(別号、万年)を迎えている。

 所在地は大坂船場尼崎町一丁目(現 大阪市中央区今橋三丁目)である。

☆亨保十一年(一七二六)丙午 山人十五歳

*四月大坂東町奉行鈴木飛騨守が、中井甃庵らによる懐徳堂学問所取り立ての願書を取上げ、北組惣年寄・川崎屋五兵衛、南組惣年寄・野里屋四郎左衛門、天満組惣年寄・中村左近右衛門宅に於いて五同志の内証を吟味した上で江戸へ遣わされる。(西村天囚著『懐徳堂考①』)

    孔文雄の養父、南組惣年寄、野里屋四郎左衛門の名がみえる。野里屋四郎左衛門は幕府への願書提出にあたって五同志についての内証吟味(資産状況の調査)役という立場で「官許懐徳堂」の設立に関わっている。

*六月七日には懐徳堂は官許の学問所となった。初代学主は三宅石庵であった。

*十月五日に懐徳堂書院において初代学主三宅石庵は、講経を開始した。この時の講義録は『万年先生論孟首章講義』と題して残されている。その最後に、この記念講義を聴講した人の名簿が「浪華学問所懐徳堂開講会徒②」としてあり、当日の受講者七十八名が列挙されている。その中に、孔文雄の養父、野里屋四郎左衛門の名がある。中井甃庵、三星屋武右衛門(中村良斎)らスポンサーともいうべき五同志、野里屋四郎左衛門とともに五同志の内証吟味役を務めた北組惣年寄・川崎屋五兵衛の名もみえる。 

 生駒山人・孔文雄の養父、野里屋四郎左衛門と懐徳堂の関係はこのように浅からぬものがある。

 また、近年発見された第二代学主・中井甃庵の手紙によると、この時の受講生は百名を超えていたという③。名簿に名前の載っていない人もいたのであろう。あるいは十五歳の孔文雄が養父に伴われて受講したのではないかという想像もあながち否定できない。孔文雄と懐徳堂の関係を示す直接的な資料は今のところないが、大店の学問好きの後嗣が、懐徳堂に通ったとしても不自然ではないし、養父と懐徳堂の関係から、少なくとも通学を勧められた可能性は充分あると思う。内本町の野里屋から今橋の懐徳堂までは徒歩で三十分足らずの距離である。

  そう思ってみると、亨保十二年(一七二七)孔文雄の十六歳の時、「貝原点の五経を買いたいとの文雄の願いで長右衛門から銀十九匁もらっている」(『日下村森家庄屋日記』)という記録も、何か意味があるように思われる。

 なお野里屋の当主は代々四郎左衛門を襲名し、また惣年寄を襲職している。孔文雄の養父は四代目に当たる④。

懐徳堂創設五同志の一人、道明寺屋富永芳春の三男富永仲(なか)基(もと)は、正徳五年(一七一五)生まれであり、孔文雄より三歳年下である。懐徳堂創立と同時に三宅石庵に弟子入りしたことは想像に難くない。仲基が十歳の時である。彼は十五、六歳の頃『説(せつ)蔽(へい)』という儒教研究法批判の本を書いたことが原因で、師の三宅石庵に破門されたと伝えられている。事実かどうかは不明である。それでも孔文雄が十三歳から十九歳の頃まで、懐徳堂で富永仲基と机を並べていたのではないかと想像することは楽しいことである。ただ仲基は延享三年(一七四六)孔文雄より早く、三十二歳で世を去っている。

  懐徳堂は後年「反徂徠」の立場を強めていく。ただ初代学主三宅石庵は「学派にこだわらず、わかりやすい言葉で道を説く人で商人に人気があった。」とされる。他方、石庵の学問は、朱子学だけでなく、陽明学をも併せ講じ、またかたわら売薬を業としていたことから、「(ぬえ)学問」という悪口もあった⑤。

 この後、孔文雄は商家が性に合わなかったのか、二十二歳の時、養家野里屋に養子解消を願い出て日下の実家に戻っている。業余に詩作を始め、京都の漢詩人龍草廬と交わり「徂徠学」に傾倒していく。一方、懐徳堂は朱子学、反徂徠の立場を強めていく。孔文雄は懐徳堂に対して気持ちのうえで疎遠になっていったものと思われる。

 附記 日下村森家一族と懐徳堂             

 以下は、「孔文雄の懐徳堂通学の可能性」とは直接関係ないが、附記する。

 西村天囚著『懐徳堂考』諸同志人名に、

 

  懐徳堂創立当時に於ける五同志以外の諸同志姓名は、今得て知る可からず。甃庵学主たりし時の享保二十年定約に連署せる人名左の如し。 

中井忠蔵(甃庵)○広岡藤八○道明寺屋吉左右衛門(富永芳春)○鴻池又四郎(山中宗古)○備前屋吉兵衛(吉田盈枝)○三星屋庄蔵(良斎の子東庵)○古金屋助十郎(入恒徳号山静)○泉屋五郎兵衛○平野屋清助(栄徳)○平野屋平作(栄興)○三宅才次郎(春楼)    ○諸同志中 

とある。

  この中の、平野屋清助という名に注目する。寛延三年(一七五〇)九月に孔文雄の次弟、万四郎が大坂平野屋へ入り婿となり平野屋清助を名乗っている。享保二十年(一七三五)定約に連署している平野屋清助は、年代から考えて万四郎の義父、先代清助ではないだろうか。

   先ほどの『懐徳堂考』諸同志人名の続きにまた、次のようにある。

 「春楼代って学主たりし宝暦八年八月の定約附記連署は左の如し。」とあって人名列挙の中に「○平野屋基斎(清助か)同平作」とある。基斎を(清助か)と註したのは著者西村天囚である。宝暦八年(一七五八)は、万四郎が平野屋清助を名乗って八年後のことである。基斎は、或いは先代清助の隠居名なのではないかと考える。

  享保二十年定約に連署の平野屋清助が後に万四郎の義父となる人であるとすれば、ここでも日下村森家と懐徳堂との関係が生じることになる。

さらに述べれば、右の連署した人名中に「広岡藤八」とあるのは万四郎が寛延二年(一七四九)春に養子に入り翌三年正月に不縁となった「加島屋」に関係する人物であろう。(なお万四郎は漢詩人としては孔文禎と称し、長兄、孔文雄とともに『金蘭詩集』にその名を連ねている。)

 『懐徳堂考』諸同志人名の最後に、

 

右は懐徳堂に学びて、其の維持費をも負担せる諸同志なるべく、悉(ことごと)く是れ町人文学伝中の人なり、今姑(しばら)く其の名を列挙して後考に供す、好古の君子、若(も)し其の伝記資料を寄示せらるれば幸甚。

 

と西村天囚は記している。

 四代学主中井竹山の長子で「預かり人」中井蕉園は享和三年(一八〇三)に三十七歳で亡くなっている。その「襄事録⑥」(葬儀記録)に参列者名が載っている。その中に安達重右衛門(善根寺村)とある。日下村森家と姻戚関係にある善根寺村足立氏である。

この名は翌享和四年(一八〇四)の中井竹山の「襄事録⑦」(葬儀記録)にも見える。中井竹山が学主であった時代に善根寺村安達(足立)重右衛門は懐徳堂と何らの関係があり、その門人であったとも考えられる。

『枚岡市史』第四巻「家関係資料  足立家先祖書㈡」によると、「足立註蔵方由の長男平五郎休為を経て平五郎の長男重左衛門方悦に至り」云々とある。足立註蔵方由は森長右衛門貞靖と同時代の当主である。安達重右衛門とあるのはこの足立重左衛門のことであろう。

ただ、寛政五年(一七九三)の日付のある「立会相談取締覚⑧」という史料に森家親戚惣代として「足立十右衛門」という名が見える。同一人物であると考えられるので、『枚岡市史』に重左衛門とあるのが間違いで重右衛門が正しいのであろう。

 余談であるが、同じ中井竹山「襄事録」には、(河内)国分 柘植(つげ)中務の名も記されている。竹山の門人で儒者にして医者であった人である。その子息が、柘植葛(かつら)城(ぎ)である。同じく儒者で、医者であった。懐徳堂で学んだ後、賴山陽の門人となり、門下四天王の一人といわれた。幕末、河内国分に「立教館」という学校を設立している。

  さらに付け加えると、孔文雄の妻、周の弟(足立平五郎の弟でもある)、足立金七(方行)の長女は、大坂の商家、平瀬家千草屋助道に嫁いでいる。後の唯心尼である。

平瀬助道と同一人物と考えられる千草屋弥左衛門⑨は天明元年(一七八一)に義金(寄付金)銀三百目を懐徳堂に拠出している⑩。千草屋弥左衛門(助道)の二代後の千草屋久佐衛門の名が中井竹山の葬儀「悔名簿⑪」「香儀帳⑫」に記載されている。おなじ千草屋一族と思われる人物の名も五名数えられる。このように平瀬家も懐徳堂と関係が深かったようである。

  『懐徳堂考』下巻(五十九)廃校後の中井氏(旧懐徳堂旧門人)の項目に並河寒泉、中井桐園時代の門人として名が挙げられている中に、木積一路、平瀬露香がある。木積一路は旧名藤戸寛斎とあり「助教たりしことあり」と記されている。日下村も氏子であった石切劔箭神社(木積社)の神職の一族と思われる。

 平瀬露香は千草屋一族であり明治時代、大阪経済界で活躍し、また文人としても知られていた。

なお安政六年(一八五九)、露香の父宗十郎春温と分家の市郎兵衛儀迢が懐徳堂助成のため五年間無利息で銀子を貸し付け、その運用を約している⑬。

 

 

  • 天囚西村時彦著『懐徳堂考:附 懐徳堂年譜』 (懐徳堂記念会一九二五年) なお、以下同書から引用するにあたり、旧字体を常用漢字に改めている 。
  • 『懐徳堂:近世大阪の学校』展覧会目録 第一00号(大阪市立博物館 一九八六年)所載  
  • 湯浅邦宏・竹田健二編・著『懐徳堂の歴史を読む:懐徳堂アーカイヴ』(大阪大学出版会 二〇〇五年)による。
  • 『浪華叢書』巻九 「大阪商業史資料」による。
  • 宮川康子著『自由学問都市大坂』 講談社選書メチエ二三二 (講談社 二〇〇二年)による。

⑥⑦  前掲注② 『懐徳堂:近世大阪の学校』展覧会目録 

  浜田昭子著『かわち日下村の江戸時代』所載

⑨ 『なにわ人物誌:平瀬露香』展覧会目録 (大阪歴史博物館 二〇〇八年)所載 「千種屋平瀬家略系図」

⑩⑪⑫  前掲注②『懐徳堂:近世大阪の学校』展覧会目録 による。

⑬ 前掲注②及び注⑧による。

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