会報「くさか史風」第2号

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塩川家文書「由緒書」に見る大坂の陣   浜田昭子

会報「くさか史風」第2号より 

塩川家文書「由緒書」に見る大坂の陣

ー豊浦村中村家由緒の真偽に迫るー  浜田昭子

                    

はじめに

 

 塩川家は、近世を通じて河内郡水走(みずはい)村(現東大阪市水走)の庄屋を務めた家柄である。水走村は河内郡の西寄りを流れる恩知川の西にあり、北を今米村、南を松原村に接する南北に細長い村である。

平成29年、塩川家のご子孫である塩川澄子氏との出会いで、塩川家所蔵文書を提供していただくことになった。同家の過去帳によると、塩川家は摂州多田庄山下城主塩川伯耆守源仲章を先祖とし、塩川家の名乗り「多田右衛門」はここからきていることが分った。

 塩川家文書を調査するうち、大坂の陣に関する由緒を書き上げた貴重な文書を発見した。それは河内では広く知られた、豊浦村中村家に、大坂の陣で徳川家康が宿陣したという由緒に関係するものであった。この文書によって、最近、疑惑の目が注がれていた中村家由緒の真偽に迫ることができるのではという実感があった。

 

豊浦村中村家の由緒

 

ここでまず、豊浦村庄屋中村家に伝わる、大坂の陣の際の徳川家康との由緒を紹介しておこう。河内郡豊浦村は生駒西麓の山里で、東は生駒山頂から、西は恩知川で水走村に接する東西に細長い村であった。豊浦村庄屋である中村四郎右衛門は、領主小林田兵衛の地方(じかた)代官を務め、近世を通じて「中村代官」と呼ばれた。中村家と徳川家康との由緒についての史料としては享保年間の系図と、文久三年に中村家が作り、近郷に配った先祖書・由緒書と、神君から拝領した品々の略図がある。   

 

1「佐々木鯰江家系」中村家系図(枚岡市史編纂室蔵)

宇多天皇から始まる系図で、享保年間の成立である。

中村家は江州佐々木氏の一族で、その元祖鯰江高昌より四代後の鯰江兵庫助唯正〈天文二年(一五三三)没〉が、近江国愛知郡鯰江城から河内国河内郡豊浦村に移り住み、中村四郎右衛門と改名した。豊浦における三代正教の時、大坂冬の陣、夏の陣で将軍家康公が本陣を据えられ、対馬守・大炊守・雅楽頭連名の制札を賜り、大樹の命により、若江・天王寺の道筋を御案内し、住吉迄供奉した。夏の陣でも本陣となり、五月十五日には将軍より御刀を賜り、酒井雅楽頭より御墨付を頂戴した。豊浦村は家康家臣小林田兵衛の知行となり、中村正教にその支配を預けた。その後、七代中村正敏が、先祖の家康との由緒により、享保十三年(一七二八)に持高の内十石を永代免許された。

 

2「中村家先祖書」(立花町額田修吉氏蔵)文久三年(1863)

夏の陣の際、権現様に菖蒲木綿を献上し、勝布に通じるとしてお悦びになり御書を賜った。この古事により、文久三年(一八六三)の将軍家茂の上洛に際し、先祖の古例に倣い、木綿の献上を願い出て許された事情が記されている。先の鯰江家系にはこの木綿献上のことは出ていない。

老中・大坂城代・定番・町奉行が巡見の際には当家に立ち寄り、宿陣の場所・御成りの間・拝領の品々を拝見になり、勝布木綿を献上する。

 

3「慶長元和年間御宿陣御由緒書」(立花町額田修吉氏蔵)

「中村家先祖書」と共に作成されたもので、家康からの拝領の品を図で示し、由緒を詳細に説明している。大坂の陣の折に小林田兵衛が手柄により近江の旧領から豊浦村へ知行替えとなり、中村家を代官として支配させたこと、大坂城代・老中の巡見の砌には中村家に立寄り由緒をお尋ねになり、家康からの拝領の品々をお目にかけていること等が記され、「御陣之砌御堅場所之図」として生駒山地から豊浦村を経て恩知川に至る家康の陣地を図示し、中村家屋敷の中の御成りの間、駒繋ぎの松、宝庫などの位置を示している。

 

4「従神君被下置候御品々略図」(立花町額田修吉氏蔵)

文久三年の将軍家茂上洛に際して中村家が作成して近郷に配ったものである。神君家康から下された枚岡郷の制札、および拝領した刀・盃の詳細と御奉書、家康感状などの釈文と共に詳しい由緒が記されている。

 

いずれも中村家先祖の家康との関係を具体的に記述し、大坂の陣で本陣を務めたことを強調し、領主小林田兵衛の代官となった経緯などを説明して、中村家の由緒を顕彰するものとなっている。現在、中村家は明治の頃に断絶し、豊浦に屋敷もないが、奈良街道沿いに、「恩蹕遺址碑」と「権現塚」が玉垣に囲まれて遺され、中村家の屋敷跡の公園には「大坂の陣家康本陣跡碑」が建てられ、中村家の由緒を今に伝えている。

 

中村家由緒への疑惑

 

現在ではこれらの中村家の由緒については、いくつかの疑問が呈されている。井上伸一「大坂の陣と菖蒲木綿ー河内国豊浦村中村四郎右衛門家由緒の検証」(『旧河澄家年報2 平成二十六年』)には細かい問題点が提起されているが、ここでは、重要な点だけを列挙してみよう。

 

1『慶長見聞書』(『大日本史料』)では、冬の陣で十一月十六日に将軍秀忠が枚岡に止宿し、家康は法隆寺に止宿しているので中村家には宿陣していない。「河内国讃良郡河岡庄岡山邑御本陣之次第」(『四条畷市史』)によれば、大坂夏の陣の慶長二十年(一六一五)五月六日に家康は枚岡に本陣、秀忠が豊浦に本陣を置いているので、豊浦の中村家に宿陣したのは秀忠で、家康は枚岡郷の他村に宿陣したと考えられる。

 

2家康の枚岡宿陣は五月六日であり、中村家の由緒とは一日のずれがある。しかも、夏の陣の五月五日に中村四郎右衛門が家康に菖蒲木綿を献上したことに対する「家康感状」とされる文書は、献上品に対する礼状で「御内書」であり、大名・旗本宛の一般的なものであるが、宛名がないことから、大名か旗本に出されたものを中村家が入手し、宛名を裁断して自家宛の文書と偽った可能性がある。慶長二十年五月五日に徳川家康が中村家に止宿し、そこで四郎右衛門が菖蒲木綿を献上したという由緒は、一九世紀に入って史実に反して創り出されたエピソードに過ぎない。

 

3酒井忠世の奉書は偽文書であり、中村家への秀忠の宿陣、刀の拝領、制札の下付についても、批判的な検証が必要である。中村家の由緒について、家康の宿陣を自明の前提として説明されてきたが、そのこと自体を問い直す必要もある。

 

以上の点から中村家の由緒を根本から問い直し、疑問視するものとなっている。では現在の文献史料によって、中村家由緒を歴史的観点から検証してみよう。

 

豊浦村中村家由緒の史的検証

 

豊浦村中村家由緒を歴史的事実と比較検討してみよう。まず、現在の文献史料を冬の陣と夏の陣に分けて列挙してみよう。

 

『当代記』『慶長見聞集』などの文献史料によれば、冬の陣の際には秀忠の枚岡宿陣となっており、家康は枚岡に宿陣していない。中村家由緒では冬の陣・夏の陣ともに家康が宿陣したとする。ここに歴史史料との相違がある。

『駿府記』では、家康が夏の陣の六日に枚岡に宿陣となっている。「河内国讃良郡河岡庄岡山邑御本陣之次第」(『四条畷市史第一巻』)では大御所は平岡、秀忠は豊浦に宿陣とある。徳川実紀では駿府記を引用して「両御所ともに平岡に御陣あり」とあるが、駿府記には秀忠の宿陣場所の記載はない。ただ、先行研究によれば、六日に家康・秀忠ともに枚岡に宿陣したとされている。

 

家康への木綿献上によって賜った御内書と、酒井雅楽頭の御刀の奉書の真偽について研究者のご意見をお聞きしたところ、天野忠幸先生(天理大学准教授)によると、いずれも偽文書の可能性が高いとのことであった。井上氏の検証のように、他の大名に発給されたものを、自家のものと偽ったのであれば偽造となる。しかも、家康への木綿献上は、鯰江家系では出てこないが、文久の史料には出てきており、後から付け加えられた可能性がある。井上氏の「一九世紀に入って史実に反して創り出されたエピソードに過ぎない」という説は納得できる。

以上のことから、中村家由緒は歴史的観点からは矛盾が多く、整合性に欠けると言わざるを得ない。

 

塩川家由緒書 

 

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大坂の陣石碑
豊浦中村家屋敷跡
水走村塩川家屋敷跡

日下丹波神社 曽我丹波守墓碑銘について      浜田昭子

日下丹波神社 曽我丹波守墓碑銘について   

                  浜田昭子 

 丹波守は寛永十一年(一六三四)に大坂西町奉行となり、その子の近佑とともに、二八年間日下村を支配したが、その治世は前項で述べたように、日下村民にとってこよない善政といわれるものであった。丹波守は明暦四年(一六五八)三月に奉行職を辞し、日下村に隠棲し、翌月四月二十一日に亡くなっている。

日下村ではその遺徳を偲び、天和二年(一六八二)の丹波守の二五年忌に御所カ池の畔に墓碑を建立し、その後、その墓碑を社殿の内に祀り、水の神として崇めてきた。それは何よりも丹波守が御所カ池の堤の改修を、領民への負担のない幕府普請で行い、日下村民への篤い恩恵となったことへの感謝の想いからであった。

現在も丹波神社の社殿内に大切に祀られている丹波守の墓碑は、碑銘の拓本の表装が丹波神社の社務所の床の間に懸けられている。今回、丹波守に関する最も古い史料である、この墓碑銘を検討してみたい。日下町自治会のご協力により、この拓本の写真を撮影させていただき、その碑面の検討に取り組んだ。

拓本の碑面は著しく摩耗しており判読は困難を極めた。その上に儒学系の難解な漢字が使われていて、我々には何とか文字の確定ができても意味が不明であった。以前よりご指導を仰いでいる皇学館大学の白山芳太郎教授のご教示を仰ぎ、当会会員山路孝司氏に翻刻と解説をお願いした。

 この碑銘文については、『大阪府史蹟名勝天然記念物』第三冊(昭和三年 大阪府学務部)に「曽我丹波守碑」として翻刻が収録されているが、それにはいくつかの誤りと思われる箇所が発見されたので今回この墓碑銘の、より正確な翻刻を試みたので、ここに示しておきたい。46㌻にその内容を挙げた。読み下しにおいて、なお錯誤もあろうかと思われるので諸賢のご教示を仰ぎたい。

 特に碑面の文言の解明であるが、表面の「戊明暦四稔」とある「稔」は同じ音から借字した「年」である。側面の最後の「夓仲呂念一烏」は、一番上の字を『大阪府史蹟名勝天然記念物』では「春」としているが、白山先生は「夓」と読まれて、これは夏の異字であるという。

丹波守の亡くなった四月は旧暦では夏である。仲呂は陰暦四月の異名で、その下の念は、「廿」の俗音が「ネン」に近いので、そこからの借字で「廿」であり、一番下の烏は太陽で、「日」を意味するという。その上の「念=廿」と続けて「廿一日」となる。つまりこの部分の意味は、「夏四月二十一日」となり、丹波守の命日ということになる。

 内容的には、曽我丹波守が大坂西町奉行として日下村民に慈悲深い賢政を敷き、民衆のために尽くしたことが記されている。「務勤以於車水」とあるのは水利に努力したことと考えられ、これは御所カ池の修復のことを指している。「作兵衛宅殞滅痕也」とあるのは作兵衛宅で亡くなったということで、村民は嘆き悲しみ、涙を拭って平山の林中に葬り、天和二年の二五回忌に「少林院殿廓然是聖居士覚霊位」としてその事績を刻んだ石塔を建て、その善政の恩に報いたとある。最後に

日下村 川角作兵衛                             

森 道誓                                                     

惣中  

とあり、川角は天和二年当時日下村の庄屋であった河澄作兵衛であり、相庄屋である森道誓とともに村を代表してこの石塔の建立に携わったことがわかる。ただ碑文を撰したのが誰であるかを探ると、森道誓の孫である長右衛門貞靖(天和二年生まれ)の墓碑銘には、

 

少にして学に志す。郷人大戸子なるものに従ふ。洙泗の旨を聞くに與(あず)かる。この時なり。(「洙泗」は儒学のこと)

 

とあり、森長右衛門が幼少の頃から大戸氏に儒学を学んだことがわかる。大戸氏とは日下村東称揚寺の住職のご先祖にあたる。大戸氏が日下村で儒学を講じていた人物であれば、この碑文にも大戸氏が関わったことも考えられる。しかしそうだとすれば、大戸氏の名が刻まれる筈であるが、墓碑銘にその名はないので、確定はできない。

丹波守の終焉の地については、前項で述べたように、塩川家文書には日下村森長右衛門宅とあり、上田秋成の『山霧記』でも森家としている。おそらく日下村で隣り合っている森家と河澄家のどちらにも滞在したものと思われるが、丹波守の死後二五年忌の天和二年という早い時期の記録を正しいとすれば、丹波守は河澄家で亡くなったということになろう。どちらにしても、丹波守は日下村でその生涯を終えたことは確かな事実である。

丹波守は一時的な領地で神となり、今なお丹波神社の祭神として日下町民の尊崇を集めている。丹波守が、河澄家と森家の庭園を造営した風流人であることから、その人徳を偲んで、毎年お月見の日に丹波神社で「名月祭」を挙行している。平成十年には、丹波守のご子孫にあたる方が遠く神奈川県から「名月祭」に参加され、三六〇年を越えて神となって今なお崇められるご先祖を偲び、村人とともに感動を新たにする場面となった。

現在、丹波神社は石切神社の御旅所となっており、毎年夏と秋の石切神社の祭礼の際には丹波神社に御神輿と太鼓台が宮入をする。また、大晦日から元旦にかけて、日下町自治会役員が、丹波神社境内でかがり火を焚き、除夜の鐘が聞こえる頃から大勢の参詣人を迎え、本殿の前に行列して拝礼する人波の整理や、御札や破魔矢を求める人の世話にあたっている。参詣の人波はとぎれることなく、日下町民の崇敬の念の深さを伺うことができる。

森家は明治期に退転しその屋敷はなくなっているが、河澄家の屋敷は東大阪市に寄付され、現在「旧河澄家」として公開されていることは、市民にとって大きな恩恵である。

丹波神社へ宮入
曽我丹波守墓碑銘拓本 丹波神社社務所

新発見の家康画像について   浜田昭子

個人蔵 大阪城天守閣寄託

徳川家康画像について

 

大阪城天守閣二〇〇一年テーマ展図録『描かれた人々』に、葵の紋付の鎧の上から陣羽織をはおり、床几に坐した家康画像が掲載されている。この画像は現在、古美術の収集家が所蔵されており、大阪城天守閣寄託となっている。

大阪城天守閣北川央館長によると、その裏には、文政六年(一八二三)八月付けの、大坂・谷町代官の辻守訓の認めた裏書があり、この画像は豊浦村・中村四郎右衛門家にあった画像を中村家当主が模写したものであるという。ただ、中村家が途絶えたあと、その伝来史料は親戚の京都・柏原家に移っているが、この画像は柏原家にはないので、中村家に伝来したものではない。

大坂夏の陣の際に家康が宿陣した中村家には、家康を描いた画像が伝来し、代官辻守訓がその写しを所望したために、中村四郎右衛門が模写して贈ったものではないかと北川館長は推測されている。

北川央「『大坂城と大坂の陣』その史実・伝承」には、

 

大阪市北区豊崎の豊崎神社には東照宮が祀られる。この東照宮はもともと西成郡本庄村の庄屋・足立家の屋敷内に祀られていたもので、明治十一年同家が衰退したため豊崎神社の東南の地に遷座し、同四十年同宮の末社になった。足立家には慶長十九年大坂冬の陣の折に、徳川家康が立ち寄って休息したといい、その由緒から安永五年(一七七六)に同家屋敷内に東照宮が勧請されたと伝えられる。

大坂夏の陣の慶長二十年五月五日に、家康は京都二条城を発し、河内星田村に宿陣している。この時家康本陣となったのが星田村庄屋の平井家で、家康の宿泊した所を「権現様御宿陣御殿跡」として大切に保存し、毎年四月十七日に東照宮の祭礼が執り行われた。

同年五月六日家康は豊浦村中村家に宿陣している。家康との由緒から星田村平井家でも、豊浦村中村家でも、邸内に東照宮を祀っていたと考えて間違いない。

 

と述べられている。そして中村家の家康画像は、邸内の東照宮で神像として祀ってきたものとされている。家康が休息した本庄村の庄屋足立家の屋敷で、東照宮が祀られていたのであれば、家康の宿陣した豊浦村中村家でも東照宮が祀られていたことはあり得る。 

皇学館大学の神道学科教授白山芳太郎先生によれば、

 

東照宮は武家の信仰で、大名が祀るものであり、一般の庶民が邸内社として祀ることは許されなかった。許されていたのであれば、家康との特別の由緒によるもので、大変珍しいといえる。

 

とのことであった。

中村家の史料の中の「慶長元和年間御宿陣御由緒書」に「中村四郎右衛門居宅之図」として、屋敷の中の御成りの間、駒繋ぎの松、宝庫などの位置を示しているが、東照宮は見当たらない。しかも、数点の中村家史料の中に、幕府から許されて東照宮を勧請したという記述もない。もし東照宮を勧請していたのであれば、それは中村家にとってこの上ない大きな名誉であり、書き落とすことは考えられない。ただ、この家康画像の辻守訓裏書によって、家康画像の原本を中村家が所蔵していたということは確かである。その大事な神像が史料として伝わらなかった理由は定かではない。

中村家に東照宮の存在は確認できないものの、神となった家康の画像を、ただ宝庫の中で所蔵するだけでは恐れ多いことであり、座敷内か、或は宝庫の中で丁重に祀っていたと考えることはできる。

中村家の史料を詳しく掲載している『枚岡市史』史料編にもこの家康画像はなく、これまで知られていなかった中村家の家康画像の存在が明らかになったのは、河内の郷土史にとって貴重な発見といえる。

中村家が家康画像を神像として祀っていたのは「東照大権現」という、神となった家康との由緒を重んじたためであり、谷町代官辻守訓が中村家を訪れ、家康画像を模写してまで所望したのは、それだけ江戸時代における家康の権威が並々ならぬものであったことを示している。

 

 

 

 

家康画像 大阪城天守閣蔵
中村家屋敷図 『枚岡市史 第四巻 史料編』

生駒山人・孔文雄 野里屋養子時代の修学  山路孝司

生駒山人・孔文雄 野里屋養子時代の修学 

ー懐徳堂通学の可能性ー

                    山路孝司 

 生駒山人が十一歳で大坂の商家野(の)里(ざと)屋(や)に養子に入って以降の修学について考えたい。孔文雄関係年譜を作成していて気づいたのは大坂の学問所「懐徳堂」通学の可能性である。

☆亨保七年(一七二二)壬寅 十一歳で野里屋四郎左衛門の養子となる。

 野里屋は内本町橋詰丁(現 大阪市中央区内本町)にあった。

☆亨保九年(一七二四)甲辰 十三歳の時、十一月に懐徳堂が開校、三宅石庵(別号、万年)を迎えている。

 所在地は大坂船場尼崎町一丁目(現 大阪市中央区今橋三丁目)である。

☆亨保十一年(一七二六)丙午 山人十五歳

*四月大坂東町奉行鈴木飛騨守が、中井甃庵らによる懐徳堂学問所取り立ての願書を取上げ、北組惣年寄・川崎屋五兵衛、南組惣年寄・野里屋四郎左衛門、天満組惣年寄・中村左近右衛門宅に於いて五同志の内証を吟味した上で江戸へ遣わされる。(西村天囚著『懐徳堂考①』)

    孔文雄の養父、南組惣年寄、野里屋四郎左衛門の名がみえる。野里屋四郎左衛門は幕府への願書提出にあたって五同志についての内証吟味(資産状況の調査)役という立場で「官許懐徳堂」の設立に関わっている。

*六月七日には懐徳堂は官許の学問所となった。初代学主は三宅石庵であった。

*十月五日に懐徳堂書院において初代学主三宅石庵は、講経を開始した。この時の講義録は『万年先生論孟首章講義』と題して残されている。その最後に、この記念講義を聴講した人の名簿が「浪華学問所懐徳堂開講会徒②」としてあり、当日の受講者七十八名が列挙されている。その中に、孔文雄の養父、野里屋四郎左衛門の名がある。中井甃庵、三星屋武右衛門(中村良斎)らスポンサーともいうべき五同志、野里屋四郎左衛門とともに五同志の内証吟味役を務めた北組惣年寄・川崎屋五兵衛の名もみえる。 

 生駒山人・孔文雄の養父、野里屋四郎左衛門と懐徳堂の関係はこのように浅からぬものがある。

 また、近年発見された第二代学主・中井甃庵の手紙によると、この時の受講生は百名を超えていたという③。名簿に名前の載っていない人もいたのであろう。あるいは十五歳の孔文雄が養父に伴われて受講したのではないかという想像もあながち否定できない。孔文雄と懐徳堂の関係を示す直接的な資料は今のところないが、大店の学問好きの後嗣が、懐徳堂に通ったとしても不自然ではないし、養父と懐徳堂の関係から、少なくとも通学を勧められた可能性は充分あると思う。内本町の野里屋から今橋の懐徳堂までは徒歩で三十分足らずの距離である。

  そう思ってみると、亨保十二年(一七二七)孔文雄の十六歳の時、「貝原点の五経を買いたいとの文雄の願いで長右衛門から銀十九匁もらっている」(『日下村森家庄屋日記』)という記録も、何か意味があるように思われる。

 なお野里屋の当主は代々四郎左衛門を襲名し、また惣年寄を襲職している。孔文雄の養父は四代目に当たる④。

懐徳堂創設五同志の一人、道明寺屋富永芳春の三男富永仲(なか)基(もと)は、正徳五年(一七一五)生まれであり、孔文雄より三歳年下である。懐徳堂創立と同時に三宅石庵に弟子入りしたことは想像に難くない。仲基が十歳の時である。彼は十五、六歳の頃『説(せつ)蔽(へい)』という儒教研究法批判の本を書いたことが原因で、師の三宅石庵に破門されたと伝えられている。事実かどうかは不明である。それでも孔文雄が十三歳から十九歳の頃まで、懐徳堂で富永仲基と机を並べていたのではないかと想像することは楽しいことである。ただ仲基は延享三年(一七四六)孔文雄より早く、三十二歳で世を去っている。

  懐徳堂は後年「反徂徠」の立場を強めていく。ただ初代学主三宅石庵は「学派にこだわらず、わかりやすい言葉で道を説く人で商人に人気があった。」とされる。他方、石庵の学問は、朱子学だけでなく、陽明学をも併せ講じ、またかたわら売薬を業としていたことから、「(ぬえ)学問」という悪口もあった⑤。

 この後、孔文雄は商家が性に合わなかったのか、二十二歳の時、養家野里屋に養子解消を願い出て日下の実家に戻っている。業余に詩作を始め、京都の漢詩人龍草廬と交わり「徂徠学」に傾倒していく。一方、懐徳堂は朱子学、反徂徠の立場を強めていく。孔文雄は懐徳堂に対して気持ちのうえで疎遠になっていったものと思われる。

 附記 日下村森家一族と懐徳堂             

 以下は、「孔文雄の懐徳堂通学の可能性」とは直接関係ないが、附記する。

 西村天囚著『懐徳堂考』諸同志人名に、

 

  懐徳堂創立当時に於ける五同志以外の諸同志姓名は、今得て知る可からず。甃庵学主たりし時の享保二十年定約に連署せる人名左の如し。 

中井忠蔵(甃庵)○広岡藤八○道明寺屋吉左右衛門(富永芳春)○鴻池又四郎(山中宗古)○備前屋吉兵衛(吉田盈枝)○三星屋庄蔵(良斎の子東庵)○古金屋助十郎(入恒徳号山静)○泉屋五郎兵衛○平野屋清助(栄徳)○平野屋平作(栄興)○三宅才次郎(春楼)    ○諸同志中 

とある。

  この中の、平野屋清助という名に注目する。寛延三年(一七五〇)九月に孔文雄の次弟、万四郎が大坂平野屋へ入り婿となり平野屋清助を名乗っている。享保二十年(一七三五)定約に連署している平野屋清助は、年代から考えて万四郎の義父、先代清助ではないだろうか。

   先ほどの『懐徳堂考』諸同志人名の続きにまた、次のようにある。

 「春楼代って学主たりし宝暦八年八月の定約附記連署は左の如し。」とあって人名列挙の中に「○平野屋基斎(清助か)同平作」とある。基斎を(清助か)と註したのは著者西村天囚である。宝暦八年(一七五八)は、万四郎が平野屋清助を名乗って八年後のことである。基斎は、或いは先代清助の隠居名なのではないかと考える。

  享保二十年定約に連署の平野屋清助が後に万四郎の義父となる人であるとすれば、ここでも日下村森家と懐徳堂との関係が生じることになる。

さらに述べれば、右の連署した人名中に「広岡藤八」とあるのは万四郎が寛延二年(一七四九)春に養子に入り翌三年正月に不縁となった「加島屋」に関係する人物であろう。(なお万四郎は漢詩人としては孔文禎と称し、長兄、孔文雄とともに『金蘭詩集』にその名を連ねている。)

 『懐徳堂考』諸同志人名の最後に、

 

右は懐徳堂に学びて、其の維持費をも負担せる諸同志なるべく、悉(ことごと)く是れ町人文学伝中の人なり、今姑(しばら)く其の名を列挙して後考に供す、好古の君子、若(も)し其の伝記資料を寄示せらるれば幸甚。

 

と西村天囚は記している。

 四代学主中井竹山の長子で「預かり人」中井蕉園は享和三年(一八〇三)に三十七歳で亡くなっている。その「襄事録⑥」(葬儀記録)に参列者名が載っている。その中に安達重右衛門(善根寺村)とある。日下村森家と姻戚関係にある善根寺村足立氏である。

この名は翌享和四年(一八〇四)の中井竹山の「襄事録⑦」(葬儀記録)にも見える。中井竹山が学主であった時代に善根寺村安達(足立)重右衛門は懐徳堂と何らの関係があり、その門人であったとも考えられる。

『枚岡市史』第四巻「家関係資料  足立家先祖書㈡」によると、「足立註蔵方由の長男平五郎休為を経て平五郎の長男重左衛門方悦に至り」云々とある。足立註蔵方由は森長右衛門貞靖と同時代の当主である。安達重右衛門とあるのはこの足立重左衛門のことであろう。

ただ、寛政五年(一七九三)の日付のある「立会相談取締覚⑧」という史料に森家親戚惣代として「足立十右衛門」という名が見える。同一人物であると考えられるので、『枚岡市史』に重左衛門とあるのが間違いで重右衛門が正しいのであろう。

 余談であるが、同じ中井竹山「襄事録」には、(河内)国分 柘植(つげ)中務の名も記されている。竹山の門人で儒者にして医者であった人である。その子息が、柘植葛(かつら)城(ぎ)である。同じく儒者で、医者であった。懐徳堂で学んだ後、賴山陽の門人となり、門下四天王の一人といわれた。幕末、河内国分に「立教館」という学校を設立している。

  さらに付け加えると、孔文雄の妻、周の弟(足立平五郎の弟でもある)、足立金七(方行)の長女は、大坂の商家、平瀬家千草屋助道に嫁いでいる。後の唯心尼である。

平瀬助道と同一人物と考えられる千草屋弥左衛門⑨は天明元年(一七八一)に義金(寄付金)銀三百目を懐徳堂に拠出している⑩。千草屋弥左衛門(助道)の二代後の千草屋久佐衛門の名が中井竹山の葬儀「悔名簿⑪」「香儀帳⑫」に記載されている。おなじ千草屋一族と思われる人物の名も五名数えられる。このように平瀬家も懐徳堂と関係が深かったようである。

  『懐徳堂考』下巻(五十九)廃校後の中井氏(旧懐徳堂旧門人)の項目に並河寒泉、中井桐園時代の門人として名が挙げられている中に、木積一路、平瀬露香がある。木積一路は旧名藤戸寛斎とあり「助教たりしことあり」と記されている。日下村も氏子であった石切劔箭神社(木積社)の神職の一族と思われる。

 平瀬露香は千草屋一族であり明治時代、大阪経済界で活躍し、また文人としても知られていた。

なお安政六年(一八五九)、露香の父宗十郎春温と分家の市郎兵衛儀迢が懐徳堂助成のため五年間無利息で銀子を貸し付け、その運用を約している⑬。

 

 

  • 天囚西村時彦著『懐徳堂考:附 懐徳堂年譜』 (懐徳堂記念会一九二五年) なお、以下同書から引用するにあたり、旧字体を常用漢字に改めている 。
  • 『懐徳堂:近世大阪の学校』展覧会目録 第一00号(大阪市立博物館 一九八六年)所載  
  • 湯浅邦宏・竹田健二編・著『懐徳堂の歴史を読む:懐徳堂アーカイヴ』(大阪大学出版会 二〇〇五年)による。
  • 『浪華叢書』巻九 「大阪商業史資料」による。
  • 宮川康子著『自由学問都市大坂』 講談社選書メチエ二三二 (講談社 二〇〇二年)による。

⑥⑦  前掲注② 『懐徳堂:近世大阪の学校』展覧会目録 

  浜田昭子著『かわち日下村の江戸時代』所載

⑨ 『なにわ人物誌:平瀬露香』展覧会目録 (大阪歴史博物館 二〇〇八年)所載 「千種屋平瀬家略系図」

⑩⑪⑫  前掲注②『懐徳堂:近世大阪の学校』展覧会目録 による。

⑬ 前掲注②及び注⑧による。

懐徳堂   大阪市 日本生命(株)壁面
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