会報「くさか史風」第8号

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会報「くさか史風」第8号

会報「くさか史風」第8号が完成しました。

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https://akiou.wordpress.com/2021/12/02/blog-kusaka202111/

大坂城御金蔵破り

大坂城御金蔵破り

 

                     浜田昭子

 

 

はじめに

江戸時代に大坂城御金蔵(おきんぞう)から、多額の金が紛失するという事件が起きている。厳重に管理されていたはずにもかかわらず、享保十五年(一七三〇)と、元文五年(一七四〇)の二回のことであった。享保十五年の事件については、『日下村森家庄屋日記』に長右衛門が記録している。しかもいわゆる現在遺されている文献史料よりも早い段階であった。

 

大坂城御金蔵

 大坂城御金蔵は、幕府の金貨、銀貨を保管し、西日本における大金庫の役割を果たした。寛永三年(一六二六)に大坂城本丸天守台の下、東南に創建された時は二階建ての建物であったが、宝暦元年(一七五一)に、古い金蔵のさらに東南に新しく築造され、天保十四年(一八四三))に一階建てに改造された。明治維新後は陸軍の倉庫として転用され、その後も荒れるにまかされていたが、昭和三十五年に解体修理された。現在も大坂城内に現存する御金蔵は、なまこ壁がひときわ美しい建物である。火災と盗難防止に特に工夫がこらされ、床板の下は厚い石敷き、入り口には二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小さな窓は土戸と鉄格子、床下の換気窓も鉄の二重戸となっている。

この金蔵に納められていたのは、幕府(ばくふ)直轄領(ちょっかつりょう)年貢(ねんぐ)物(もの)成(なり)長崎(ながさき)運上(うんじょう)酒(さけ)運上(うんじょう)大坂(おおさか)諸川(しょかわ)船(ふね)運上(うんじょう)などの公用金であった。大坂(おおさか)御金蔵(おきんぞう)金銀(きんぎん)納方(おさめかた)御勘定帳(おかんじょうちょう)」によれば、元禄十六年(一七〇三)年の納金高は三三万六千両に上り、大坂定番(じょうばん)(大坂城の警備に当たる大名)支配の大坂金奉行が管理(かんり)出納(すいとう)の任にあたっていた。金銀出納日は毎月、五日・十六日・二十三日の三日間で、金奉行と、城代・両定番の家士(かし)東西(とうざい)両町(りょうまち)奉行所(ぶぎょうしょ)金役(かねやく)与力(よりき)臨検(りんけん)することになっていた。(大野瑞男「元禄末期の幕府財政の一端 大坂御金蔵金銀納方御勘定帳の紹介を兼ねて」1971『史料館研究紀要』第四号)

頑丈な造りの上に、江戸幕府の大坂長官ともいえる大坂城代をはじめ、西国の幕府防衛の要というべき、大坂定番・大坂町奉行所の総力を挙げて警備していたはずであった。しかしながら、江戸時代を通じて二度も御金蔵破りに遭うという不名誉な事態になっていた。

享保十五年の事件

『日下村森家庄屋日記』享保十五年(一七三〇)十月二十五日条に以下の記述がある。

 

十月廿五日 晴

一今日御金(おかね)奉行(ぶぎょう)冨士市(ふじいち)左(ざ)衛門(えもん)殿・河原七(かわらひち)兵衛(ざえもん)殿・蜂屋(はちや)多宮(たみや)殿木村左次右衛門(きむらさじえもん)殿四人御城代(おじょうだい)丹後(たんごの)守(かみ)様御(お)召出(めしだし)、直ニ御加番(かばん)(定番に加勢して大坂城の警備に当たる大名)方四人へ壱人ツヽ御預ケ

一御金手代衆も御番所へ御召出、直ニ牢屋へ被遣候

一御金方与力衆

    弓削権(ゆげごん)左(ざ)衛門(えもん)殿  大須賀万右衛門(おおすがまんえもん)殿

     片山清左衛門(かたやませいざえもん)殿   丹羽勝右衛門(にわかつえもん)殿

右四人も牢屋ノ揚屋(あがりや)御入被成候(おはいりなされそうろう)由(よし)候(そうろう)

御金奉行は大坂定番の配下で大坂に在勤し、大坂城内の金蔵の管理・出納を掌る役職であるが、その四名が御加(おか)番(ばん)預けとなり、御金方与力は旗本・御家人などが収容される揚屋(あがりや)収監(しゅうかん)された。御金手代衆は一般人の牢屋への収監となり、これがどのような事件によるものかを長右衛門は記していない。その後の処分については『大阪編年史』第八巻の享保十六年十二月二十六日条に『徳川(とくがわ)実記(じっき)』の記載として、

  

(中略)大阪城の御金失せしをもってこの事査検の間、

その金奉行冨士市左衛門某は大久保山(おおくぼやま)城(しろの)守(かみ)忠(ただ)胤(たね)蜂谷(はちや)

多宮(たみや)(ぼう)は保科弾(ほしなだん)正忠(じょうのじょう)正壽(まさとし)河原(かわはら)市(いち)兵衛(べえ)丹羽(にわ)式部(しきぶ)

少輔(しょうゆう)(しげ)(うじ)、木村(きむら)佐(さ)次(じ)右(え)衛門(もん)某(ぼう)柳澤(やなぎさわ)刑部(ぎょうぶ)少輔里済(しょうゆうさとずみ)に召

し預けられ、下吏等みな獄にこめらる

 

とあり、日付は『日下村森家庄屋日記』の享保十五年(一七三〇)十月二十五日より一年余も後になっているが、いずれも御金奉行の四名が大坂御加番にお預けになったことを記録している。その後、同史料十二月二十七日条に、「奉行所文書」の御金(おかね)紛失(ふんしつ)御吟味(おぎんみ)落着(らくちゃく)御書付(おんかきつけ)の写として次の記載がある。

 

   申渡之覚

  改易(かいえき)      大坂御金奉行   冨士市左衛門

  重き追放    同        蜂谷多宮

  遠島      同        木村佐次右衛門

  追放      七兵衛忰     河原八郎兵衛

  追放      同        同 七之丞(ひちのじょう)

   但 十五歳迄親類え預ケ置可申候

  追放      佐次右衛門忰   木村(きむら)佐(さ)吉(きち)

  追放      同        同(どう) 善八(ぜんぱち)

   但 同人共十五歳迄親類預ケ置可申候

  遠島      大坂御金同心   木村喜(きむらき)左(ざ)衛門(えもん)

  暇可遣候(ひまかつかわすべくそうろう)   同        南部(なんぶ)和平(わへい)次(じ)

  暇可遣候    同        行(いく)松(まつ)助右(すけえ)衛門(もん)

  暇可遣候    同        横尾甚蔵(よこおじんぞう)

  暇可遣候    五藤次忰御金同心 北嶋吉之丞(きたじまきちのじょう)

  追放      雀部(ささべ)平(へい)太左衛門(たざえもん)忰 久保辯(くぼべん)左(ざ)衛門(えもん)

          雀部平太左衛門養父方之弟

            播州西宮罷在候(まかりありそうろう)医師

  所払               太田宗健(おおたそうけん)

  追放      喜左衛門忰    木村(きむら)善太郎(ぜんたろう) 

追放      同        同(どう) 多助(たすけ)

   但 両人共十五歳迄親類え預ケ置可申候(しんるい  あずけおきもうすべきそうろう)

  遠島      冨士市左衛門若党(わかとう) 伊藤(いとう)金八(きんぱち)

  所拂               阿波屋(あわや)権兵衛(ごんべえ)

  御金紛失之儀、去年以来令僉儀候(きょねんいらいせんぎせしめそうろう)此上猶又遂(このうえなおまた)糺明(きゅうめいをとげ)急度御仕置(きっとおしおき)可被仰付候得共(おおせつけられそうらえども)、今度日光山御宮御霊屋正(おたまやせい)遷宮正遷座相済候付(せんぐうせいせんざあいすみそうろうについ)テ赦之(ゆるし)為(の)御沙汰(おさたのため)其(その)罪(つみ)を減(げん)せられ、右之通被仰付候也(みぎのとおりおおせつけられそうろう)

 

 御金奉行冨士市左衛門は改易(武士身分剥奪、知行没収)、

蜂屋多宮は重き追放、木村左次右衛門は遠島になり、河原

七兵衛は牢死したが、その忰八郎兵衛と七之丞が追放に処

せられた。御金奉行木村佐次右衛門は遠島となり、その二

人の忰は追放となり、いずれも十五歳になっていなかった

ので、刑の執行を延期され、親類預けとなっている。御金

同心四名は解雇され、御金同心木村喜左衛門のみ遠島とな

り、その二人の忰は追放になっている。

しかも、雀部平太左衛門は牢死したものか、その忰が追

放、その上養父方の弟である播州西宮の医師太田宗健までも所払という、厳しい縁座に処せられている。冨士市左衛門の若党も遠島という連座に処せられた。この時、日光山御宮御霊屋正遷宮があり、そのために減刑されたもので、本来はもっと重い刑罰であったようである。所払となった町人一人がいるが、この町人阿波屋権兵衛の罪状は不明である。その後に、与力・手代とその家族、中間・下人まで三七名が列挙され、彼らは構いなしとされている。その後に、「聞書」として 

 

  一御金紛失

   享保十五年戌年四月、金千拾三両御蔵ニテ紛失、段々御詮義、同十七年二月済、役人不残(のこらず)牢舎(ろうしゃ)、御金奉行四人、冨士市左衛門改易、蜂屋多宮追放、木村左次右衛門遠島、河田原七兵衛牢死、手代八人ノ内二人牢死、二人遠島、四人追放、天満金役人大須賀萬右衛門・片山清左衛門・丹羽勝左衛門・弓削権(ゆげごん)左(ざ)衛(え)門無別條(もんべつじょうなく)出(しゅつ)牢(ろう)、只今迄ノ通リナリ、丹羽・弓削ハ牢死せられ、子息ヲ被召出ル

 

とあり、この事件が享保十五年四月に御金蔵から一〇一三両が紛失した事件であったことが判明する。天満金役人大須賀萬右衛門・片山清左衛門・丹羽勝左衛門・弓削権左衛門は出牢、役職もこれまで通りとなったが、丹羽・弓削は牢死し、子息が父の役職に召出されている。河原七兵衛と手代八人の内二名も牢死と、合計五名が牢死している。

この牢死の多さは、入牢を命じられた精神的な痛手もあろうが、享保十五年十月の入牢から、翌年十二月に判決が出るまで一年二ヶ月もの長期の収監であり、牢内における生活環境の劣悪さも考えられるが、おそらく厳しい尋問や過酷な拷問があったのではないかと想像される。

それも最高刑が冨士市左衛門の改易で、あとは追放と遠島という比較的軽いものであり、もしこの事件が、彼等役人による犯行であれば、当然磔(はりつけ)獄門(ごくもん)となったはずで、内部のものの犯行ではなかったようである。

この事件は、享保十五年四月に起きたが、御金奉行・与力たちを収監したのは、半年後の十月である。その間、御金紛失に気付かなかったのであろうか。毎月三回の臨検にもばれない工夫をしていたか、いずれにせよ手落ちである。

『徳川実記』に記載の、享保十六年十二月二十六日条の記録が、公的な史料として最も早いものであるが、それより一年以上早い享保十五年十月の段階で、長右衛門は『日下村森家庄屋日記』に記載している。

それが可能であったのは、大坂の南組惣(みなみぐみそう)年寄(としより)を務める野里屋四郎(のざとやしろう)左(ざ)衛門家(えもんけ)に養子にはいっていた長右衛門の長男新助が、その前年より惣年寄名代として大坂町奉行所へ出仕していたからである。その情報を受けた新助はいち早く、日下村の父長右衛門に手紙で知らせたのである。もっとも大坂町人の間では、この事件の詳細は広く流布していたはずで、長右衛門と交流のある大坂町人からも情報は入っていたと思われる。

それからさらに、この事件の刑罰申渡が翌年十二月と、決着までに一年八カ月もかかっている。その間に、処分の出たもの一八名と、「構いなし」のもの三七名と、合計五五名の取り調べが行なわれたにもかかわらず、どの史料にも犯人の記載がなく、結局この事件は全容解明には至らなかったのかと思われた。二〇〇九年に当会で刊行した『日下村森家庄屋日記 享保十五年・十七年・十八年』に、事項解説としてこの事件の内容を掲載したが、そこでも「この事件の犯人は、結局大金を手にして逃げおおせた。」と結論付けている。しかし今回調べ直したところ、『河内屋可(かわちやか)正旧記(しょうきゅうき)』にこの事件に関する記載があることがわかった。

 

享保十五年十月

大坂御城代土岐(とき)丹後様御入被成候(たんごさまおはいりなされ)、御城御用金紛失之義ニ付、御金用人与力衆御吟味ニ付、江戸より為御上意籠者(おじょういのためろうしゃ)、大坂以(もって)ノ(の)外騒動仕候(ほかそうどうつかまつりそうろう)由(よし)風聞(ふうぶん)(『河内屋可正旧記』年代記抜書 21㌻清文堂史料叢書第一刊)

 

とあり、御金蔵御金紛失の取り調べのために、大坂城代土岐丹後守が大坂城に入られ、御金用人与力衆の吟味にあたり、江戸よりの指示によって籠者とあるが、籠者は牢舎で、入牢させたということである。さらに、同資料の享保十五年十一月には

 

大坂御城御金之盗人被遂御僉儀候処(おかねのぬすっとおせんぎとげられそうろうところ)科人白状致(とがにんはくじょういたし)御金(おかね)奉行(ぶぎょう)手代(てだい)衆(しゅう)笹部(ささべ)石(いし)衛門(えもん)初(はじめ)十人余(じゅうにんよ)被申候(もうされそうろう)

 

御金奉行手代衆笹部石衛門はじめ十人余の科人が白状したとあって、御金蔵破りの犯人が判明している。

大坂城代土岐丹後守は、享保十五年七月十一日から、享保十九年(一七三四)六月六日まで、無事に大坂城代を務め上げて、同年六月に京都所司代(しょしだい)となる。寛保二年(一七四二)六月に老中となり、延享元年(一七四四)九月十二日、五〇歳で江戸にて没している。御金蔵御金紛失という不始末に関して何のお咎めもなく、順調に出世している。

御金奉行は大坂定番の配下で、大坂城内の金蔵の管理・出納を掌った。この時の京橋口定番で山口(やまぐち)修理(しゅりの)亮(すけ)弘(ひろ)長(なが)常陸国牛久藩5代藩主)は、この事件のために処罰されている。この時の町奉行は、西が松平(まつだいら)日向(ひゅうがの)守(かみ)勘(さだ)敬(たか)、東は稲垣(いながき)淡路(あわじの)守(かみ)種(たね)信(のぶ)であったが、いずれも何のお咎めもなかった。

東町奉行であった稲垣淡路守種信は、その後も同職にあり、後述する元文五年(一七四〇)の御金蔵破りに関しては、お咎めを受け、同年に免職になっている。この時の西町奉行佐々(ささ)美濃(みのの)守成(かみなり)意(むね)には何のお咎めもなく、その後延享元年(一七四四)まで務め上げている。この処罰の差はどういう理由によるものかは不明である。

この事件については『日下村森家庄屋日記』にも十月の御召捕りについては詳しく記されているのであるから、当然十一月の「科人白状」についても記録したはずであるが、残念ながら、『日下村森家庄屋日記』のこの年の日記は十月二十九日で終わっている。その理由は不明であり、しかもその翌年の享保十六年の日記も失われている。この事実を記録した文献は、この『河内屋可正旧記』のみということになる。

 しかし、大坂城代や町奉行所の記録には遺っていないのであろうか。それについて、大阪城天守閣の北川央館長にお尋ねしたところ、次のような事実をご教示いただいた。

 

徳川時代の大坂城は、城代・定番・大番・加番などに任命された譜代大名や旗本たちがどんどん入れ替わる形で着任するので、まとまった記録が残っていない。二〇数年前から、それらの役職に就いた譜代大名たちの地元に調査に行き、大坂城在任中の公用日記などを写真に収め、順次翻刻して『徳川時代大坂城関係史料集』として刊行しているが、現在、二一集を刊行したものの、享保十五年の日記はまだ発見できていない。それが出てきたら、この事件に関する詳細な記録が記されているはずである。おそらく犯人は処刑されたはずであり、大坂町奉行所や大坂三郷の惣会所の記録などにも記されていたはずであるが、そうした記録もまとまったものが残っていないので、『河内屋可正旧記』の記録は貴重なものになる。

 

とのことであった。とにかく「御金奉行手代衆笹部石衛門初十人余」という内部の者の犯行であった。手代とあるが、これは百姓・町人から雇われるもので、武士身分ではなく、町役人や村役人の子弟が多く任命された。給金は代官手代が金二〇両五人扶持程度であったから、同じようなものであったとすると、暮らしは楽ではなかったはずである。常々御金蔵の管理に供奉する役職であり、一攫千金を夢見たとしても無理はないだろう。そして十人余りでそれを実行したのである。この犯人たちもおそらく磔獄門に処されたはずであるが、そのことについては、どこにも記されていない。内部の者によって、このような失態を許したということは、大坂定番・町奉行所の面目は丸つぶれとなり、衝撃は大きかったに違いない。これ以後警備はこれまで以上に強化されたはずであった。

 

元文五年の事件

ところが、このわずか十年後の元文五年(一七四〇)五月にまたしても御金蔵破りがあった。

この事件は、朝日新聞平成二十八年三月十二日付の大阪城天守閣館長北川央氏による「匠の美」に詳細が記述されている。それによると、盗まれたのは四千両という大金であった。再度の大事件に江戸からも目付らが大坂城に派遣され、極秘裏の調査の末、事件は解決に至った。犯人は、大番を勤めた旗(はた)本(もと)窪(くぼ)田(た)伊(い)織(おり)中間(ちゅうげん)梶(かじ)助(すけ)で、彼は主人の鑑札を貰いに行った折に本丸に忍び込み、釘で三重の扉を開け盗み出したのである。大金のため、二回に分けて四〇〇両ずつ運び出し、残りは本丸御殿の床下に隠した。

捕縛されて、犯行を自供した梶助は、市中引廻しの上磔に処せられ、主人の窪田伊織、金蔵管理の大坂金奉行など多くの役人が処分されたという。

わずか十年の間に二回もの失態であったから、この時は、幕府も十年前の轍(てつ)踏(ふ)むことは許されなかった。事件発生が五月、処分言い渡しが九月と、わずかに四ヶ月という速さでの決着であった。幕府は威信をかけて事件に臨んだのである。

犯人である大番の中間を勤める梶助が、思い付きでこの大胆な犯行を行ったとは考えにくい。釘で厳重な三重の扉を開けることができたのは、それなりの熟練者であったはずで、彼は経験を積んだ盗人稼業のものであった可能性が大きい。十年前に金蔵破りがあったばかりで。いつか大仕事をやってのけてやろうという思いが、彼の盗人魂を揺さぶるものとなっていたのではないだろうか。自分の技術があれば出来るという自信があったはずである。

梶助の身分の中間は、いわゆる武家奉公人で、百姓・町人身分から雇われるものであり、はじめから大坂城御金蔵狙いでの中間奉公であったかもしれない。彼は事前に何度か大坂城本丸に忍び込み、御金蔵の扉の鍵を下見しながら、鍵を開ける方法を探りつつ、機会を窺っていたのであろう。

だが、幕府もこの事件を迷宮入りにすることは幕府権威の大きな失墜につながると、総力を挙げて捜査に取り組んだから、わずか四ヶ月で彼の命運は尽きたのである。

莫大な金銀がうなる金蔵は、世の盗賊たちの見果てぬ夢をかき立てるものであったろう。いつの世にも、厳重であればあるだけ、それを突破して大金を手にしようという大胆不敵な輩はいたのである。だからこそ、この厳重な造りにもかかわらず、二度も金蔵破りに遭ったのである。

 

註『河内屋可(かわちやか)正旧記(しょうきゅうき)』=河内石川郡大ケ塚村の河内屋可正(一六三六~一七一三)が、酒造業を営む傍ら、俳諧や能をたしなむ文人として、自身の体験・見聞・処世訓を綴ったもの

 

 

村方文書に見る近世の村社会の人間模様

村方文書に見る

近世の村社会の人間模様

 

 

                浜田昭子

 

はじめに

河内の旧家の村方文書を解読していると、近世の村社会に起きている様々な切実な問題が明らかになる。いつの世にも、普通に暮らしていけない人というのはあって、そこには、それぞれの余儀ない理由が隠されていて哀れさを誘う。しかしそこにこそ、人間の真実の一面というものが如実に表れているともいえよう。その一端を紹介しょう。

史料として使用した『川中家文書』『向井家文書』『日下村森家日記』はいずれも日下古文書研究会で解読をし、史料集として刊行したものである。

 

1 行倒れ人(『今米村川中家文書』ー天明三年願書扣)

嘉永四年(1851)二月十日、春とはいえまだ肌寒い夕暮れ、今米村の非人番浅五郎がいつものように村の見廻りをしていたところ、川中新田の東堤の道で一人の男が行倒れていた。三〇歳ばかりのこの男は病気の様子で、どうやらここ数年この辺りを徘徊していた非人のようである。早速村方へ知らせ、村役人が現場に駆けつけ、庄屋の屋敷へ運び込んで介抱にあたる。食べ物を与え、薬を服用させるが回復せず、ついに翌日の朝に亡くなってしまう。

彼はこの寒空に袖無しの破れ帷子を着用し、持ち物といえば、茶碗一つ、箸一膳というわずかなものであった。非人身分という不幸な境遇にあって、村々を徘徊する中でなす術もなく衰弱し、行倒れるという最悪の結果を招いたのである。

この行倒れ人を発見した非人番も非人身分であった。彼らは村外れに小屋をかけ、野荒し、盗賊の番をし、年に幾ばくかの米麦を村から給与される、いわゆる村の警備を受け持った存在であった。番人は村々に一人ずつ分散していた。摂津、河内の非人番は大坂四ヶ所長吏の支配下にあった。四ヶ所長吏とは大坂の天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ケ所垣外(かいと)と呼ばれる地域に置かれた非人宿の長のことである。

近世初頭から都市には雑多な民衆が流入していた。その中には村落共同体の秩序からはみ出した、いわゆる正業に就かない人々、困窮により村から逃散し、また犯罪者や転び切支丹となり村を追放された人たちもいた。そうした人々が身を寄せ合い、非人集団として成立していく。彼らは都市の営みの中でも是非とも必要ながらも、誰もが忌避する仕事、例えば川浚え、ゴミ拾い、汚物処理などを受け持つことで生きる術を手に入れていった。そうした仕事をこなす上での秩序が必要になり、次第に内部組織が整えられて、その頂点を長吏とし、下に小頭、若き者、その下に町々の木戸番を勤める弟子たちがいた。

その内部組織の統制は厳しく、番人の権利は金銭を伴って取引される株となっており、定まった請人の保証がなければ番人になることは出来なかった。彼らは町や豪商に抱えられ、垣外番として町の警備を担当していた。そして彼らは周辺村落へも派遣されたのである。

この行倒れ人は大坂の町中であれば、そういう組織へ組み込まれ、何とか生きる道を与えられたはずである。しかし彼はそれさえできない事情があったのかもしれない。あるいは四ケ所垣外から何らかの理由で追放されたか、自分から出て行ったかもしれず、彼は川中新田の周辺村々を徘徊し、茶碗と箸を持って民家の門口に立ち、物乞いで命を繋ぐ境遇に身を落としていた。

そして縁者とてなく、わずかな村人に看取られてあわれな一生を終えたのである。この後、今米村の百姓代嘉右衛門と、発見者の非人番の浅五郎から、領主である信楽御役所へ届書を出して一件落着であった。

 

2 久離願(『川中家文書』「天明三年願書扣」)

近世の村々では、村落共同体の秩序に従って生きることが出来ず、親から勘当され久離を切られる人間が少なからずいた。久離とは、不良の息子が親や親戚をはじめ、村方に迷惑をかけることを警戒して、あらかじめ人別帳から外しておくことである。人別帳から外されると奉公に出ることも叶わず、普通の暮らしは望めなくなる。いわゆる無宿者として、博徒集団に入るか、そうでなければ、村落を放浪するしかない。彼らの末路はほとんどが悲惨なものであ  った。

 寛政九年(1797)三月、今米村の喜八は忰宇八の久

離願を出す。忰宇八は一年前に家出していた。親喜八は領

主へその旨の御届をし、三十日の捜索を命じられたが捜し

出せず、八右衛門は帳外(ちょうはずれ)となっていた。帳外とは、村か

ら出て行って、行方不明となった人物を人別帳から外して

おくことである。

当時は刑罰が縁座制、連座制であるため,犯罪者の親類縁者にまで刑罰が及ぶことが多かった。それ故に、不法行為を行うおそれのある子をもった親はその子を勘当し、さらに人別帳から外しておくしかなかった。またそうした要注意者を村役人が帳外扱いにして、人別帳に札をつけておくところから、「札つき」といわれるようになる。

喜八は行方の知れない忰がどこでどのような犯罪を犯すかしれず、自分や親類が縁座に連なり、罪科に処せられることを恐れて、改めて久離を願い出たのである。

 

  外ニ右之通願相済申候ニ付、諸親類より村方役人へ承知之段他者より申分者無之趣一札取置申候

   右名前 役人中    喜八   左右衛門

      五人組頭   利右衛門 善二郎

      百姓代    甚左衛門

 

久離願の際には、傍線のように、村方が親類一同関係者から、この久離について申し分のないことを誓約した一札を取っている。後になってからの面倒をさけるためである。

親の喜八はこの後すぐに往来手形をもらって二四輩(にじゅうよはい)巡拝に出かけている。二四輩巡拝とは、親鸞の関東時代の高弟二四人と、その二四人を開基とする寺院のことで、「二十四輩牒」が元となっている。親鸞の存命時分から時代が下り、親鸞の教えに背き、誤った教義を広める者が増えたため、本来の教義を広め伝えるために、正しい教えを受け継ぐ直弟子を選出したものといわれている。

喜八は二四輩巡拝に出立し、関東の各寺院を廻り、せめて忰の行く末の無事を願ったのであろうか。不良の忰を切離すしかない親の歎きというものを、かみしめながらの旅であったろう。

 

3 久離人行倒れ(『川中家文書』「天明三年願書扣」)

 寛政九年(1797)二月、今米村の尼妙久から、かつて久離を願い、人別帳から外された息子の久離(きゅうり)御免の願が出される。その理由は以下のようなものであった。

 尼妙久の忰八右衛門は、八年以前に素行不良を理由に母妙久はじめ親類相談の上で久離届を出し、人別帳から外されて無宿者となっていた。それ以後は周辺村落を徘徊しながら、路頭に立ち、乞食として露の命をつないでいた。しかし近年病身となり、母のいる今米村の境まで来たところで、行倒れてしまったのである。

 村方のものが介抱していたが、どうやら重病のようである。母妙久はそのような息子の姿を不憫に思い、自分で介抱してやろうと、門徒とも相談の上、久離御免を願い出たのである。

 母妙久も尼となって門徒の援助を受けてかろうじて糊口をしのいでいたのであり、働きもしないで方々へ迷惑をかける不良の息子を切り離すしかなかったのであろう。しかし重病となって行倒れた息子の最後はせめて母の手で、という哀れな願いであった。八右衛門は死を前にしてようやく母に受け入れられたのである。この男は間もなく亡くなったようで、最後に母に看取られただけでもわずかな救いであったろう。

 八右衛門のように、村落には真面目に働くことが出来ず、賭博に明け暮れ、家の金や道具まで持出し、親類や村人へ借金を重ね、どうにもならないところで、親が最後の手段として久離を切るような事例がかなりある。

親としても息子を無宿にすることは、普通の暮らしは望めず、悪の道に入り、悲惨な運命に押しやることは分かっていても、それしか選択肢がないのである。

 

4 妊娠出入(『川中家文書』「天明三年願書扣」)

近世においては、長子が家を相続すると、それ以外の子供は他家へ養子に入るか、奉公に出された。女子であっても結婚までは家の経済的な助けになるために奉公に出ることが多かった。

しかし特に女子の場合、奉公先での一時の過ちによって妊娠に至ることもあり、相手の男性が不誠実な場合には大きな問題となる。今米村での妊娠出入は、その典型的ともいえる事件であった。

今米村の三郎右衛門は娘の「きん」を十一歳の時に八年季の契約で菱江村庄屋彦左衛門方へ奉公に出していた。十八才となり、翌年には年季明けという享和元年(1801)になって、藤七という男性に妊娠させられ、七ヶ月になったので働くことが出来ず、実家に帰っていた。雇い主の彦左衛門からは、年季の途中で実家に帰られては役に立たず、代わりの人間を差し出すようにとの申し出がある。

三郎右衛門は相手の藤七へ掛けあいするも取り合わず、とうとう藤七は失踪してしまった。親の三郎右衛門としては難渋するばかりであった。ついに相手の藤七に「きん」を引受け、安産の上、子供を引き取ることを求めて、訴訟に持ち込んだのである。こういう事件はどこの村でもあり、特に村の中でも未婚のまま女性が妊娠することは珍しいことではなかった。客坊村の村定めの中に、

 

一男女若き者身持ち不埒につき、懐妊におよび候節、産婦入用、小児片付入用など勘定仕立、七分三分に割合、男より七分、女より三分差出し、穏便に相済候よう致すべきこと

 但双方不埒の筋申立て、村役人へ申し出候はば相た

だし候上、不埒の申分いたし候者、過料銭三貫文差出させ、村の入用に致すべきこと

 

という条目があり、若い女性の婚姻前の懐妊が珍しいことではなく、「小児片付け」という堕胎処置があたりまえのように行われていたことがわかる。その際の双方の負担を男性七分、女性三分とし、話し合いが紛争になった場合は、過料三貫文(約六万円)という金銭的な取り決めがなされているのである。このような細かい条目が必要なほど、こういうことが頻繁に起こったのだといえる。その後の条目には

  

一若き者他村へ夜遊びに参り候義は申すに及ばず、居村にても夜遊びに参り、長咄など致し候儀決して致すまじく候

 

とあり、「夜遊び」という若者同士の遊興が盛んであった事が分かる。そしてそれは堕胎に関する詳細な規定を見れば、男女の婚前交際、いわゆる「ヨバイ」という風俗にも繋がっていたことは明白である。江戸時代の閉鎖的な村落の中では、村の若者が、若い女性のもとへしのんでいく、ということは、広い地域で行われてきた慣習というべきものである。小児片付入用、過料銭三貫文という文言が、若者の夜遊びの赤裸々な実態を暴露している。

しかし適当な時期に堕胎処置を取ることも出来ず、七ヶ月の身重になって相手の男性が逃げてしまった今回の場合は、最悪の状況であり、公儀への訴訟以外に方法はなかったのである。この結果は明らかではない。

こうした事情のある子供を産んだ母親は乳母として奉公に出ることが出来た。母乳を与えることが出来るので、一般の下女より二割程度は高い給銀で雇われたのである。

『森家庄屋日記』にも普通の下女の給銀が年に五十匁のところ、森家の四男佐市の乳母として雇い入れた乳母の給銀は八十匁であった。母乳が出る女性は乳母として重宝されたのである。しかしその場合は自分の子供はどこかへ養子に出すしかなかった。

しかしながら、そのような手段を講じることも出来ず、密かに生んだ子供を育てることも出来ず、悲惨な状況に陥る女性もいたのである。その果ての行為は、子供を捨てることであった。次に捨子についてみてみよう。

 

5 捨子

近世から昭和のはじめ頃までは、捨子はそれほど珍しいことではなかった。子を捨てることは、厳しい暮らしの中では生きるための方便として罪とは考えられていなかった。特に関東・東北の貧しい地域では捨子は日常的な風景であった。松尾芭蕉もその旅の途中、富士川のほとりで泣き叫ぶ捨子を目にし、『汝が性の拙きを泣け』という言葉とともに見捨てて立ち去っている。捨子はその子の持って生まれた宿命と考えられた。

子の養育が困難な場合は、間引きなどによって抑制していたものの、福祉政策などのない江戸時代の庶民にとっては、様々な要因によって捨子という選択肢しかなかったのである。十七世紀末までには、村や都市では親から捨てられた子供の増加が社会問題化していた。

五代将軍綱吉が一連の「生類憐みの令」を発令するが、その中心は捨子政策であった。元禄三年(1690)には単独の捨子禁止令が出され、捨子禁止と罰則の強化、発見時の届け出と、捨てられた村での養育の義務化、養育者への給付支援などが定められた。その後も罰則強化や妊婦登録義務化など捨子関連法令が出された。

こうした一連の法令にもかかわらず、江戸時代を通じて捨子は減ることはなかったから、捨子養子制度が発展する。捨子が見つかると奉行所に届け出を行うが、奉行所は村方で養育するよう命じる。村で養子先を探して持参金を持たせて引き取らせることで対応した。

関東・東北・西国などの貧村では捨子は多く、余りにも頻繁にあったので、捨子を発見しても領主への届書は不要となっていた地域さえある。捨子のみならず、生まれた子をすぐに殺す「間引き」も多く見られたことであるが、比較的生産性の高い畿内の捨子はそれほど多くなかった。

河内の村方文書の中にも捨子に関するものはあるが、日下古文書研究会で文書調査した三ヶ村で確認されたのは各村で一件ずつである。ではその具体的な事象を、今米村・善根寺村・日下村の場合に見てみよう。

 

今米村の捨子(川中文書「文政元年書付扣」)

文政十年(1827)八月五日の夜のことである。今米村の庄屋である川中家に日雇いで来ていた村人茂七のもとへ、十三歳になる息子の藤七が用事のために訪れて、九時ごろに帰ろうと門まで出てきたところ、川中家の屋敷を取り巻く垣の下に、何か捨ててあるのを見付ける。庄屋川中三郎平に知らせ、みんなで見たところ、生後百日くらいの男の赤子であった。木綿縞の綿入を着て、布で包んであった。泣き声もたてず、手足は冷え切っていたが、まだ体には温かみがあったので、早速隣村の医師を呼び寄せて診察させる。だが衰弱が激しく薬湯を服用させて療治するものの脈も弱まり、まもなく亡くなってしまった。

非人番又助を呼び寄せ、捨子の親が忍んでいるのではと、近辺を探させたところ、怪しいものは見い出せなかった。おそらく困窮の果てに養育も出来ず、このような所業に及んだものと思われるが、親の手がかりになるようなものもなかった。早速領主・木村宗左衛門代官所への届書を認める。翌六日早朝四時ごろから村人二人が、京都蛸町役所へ御届に上る。

八日、御検視として木村宗左衛門代官の手代・林泰蔵が到着し、早速遺体を改め、御届に相違ないことが明らかとなり、遺体は村預けとなる。発見者である藤七・非人番又助・庄屋三郎平、及び診察した医師松原村の高田元発の四名がそれぞれ事実に相違ないことを書面にして差出し、遺体の取片付けを願い出る。

代官手代林泰蔵からは、この事件に関連のものがいないか立札を立て、隣村である中新開・松原・水走の三ヶ村へも順達し、留り村から旅宿へ届けるように、との下達であった。今米村では命じられた立札を春日神社の北の田に立てる。この札は六ヶ月の間立てて置くように、それ以後は取り除くようにとのことであった。しかし誰も名乗り出ることはなかった。結局今米村の捨子はこのような経過をたどり、捨てた親もその事情も不明なままであった

善根寺村の捨子(向井家文書)

享保十三年(1728)二月、善根寺村の吉兵衛の屋敷前に女子の捨子があり、ねんごろに介抱し、養育していたところ、中垣内村の彦兵衛が捨てた親として名乗り出てくる。領主へこの事情を御届けすると、村で処置するようにとのことであった。仲介人として中垣内村の昌元がこの一件を扱うことになり、五月になって、この女子を六〇匁の持参銀をつけて、水走村源兵衛へ養子とすることになる。養育していた吉兵衛へは養育雑用銀として一五〇匁を渡し、一件落着となる。

 養子先水走村源兵衛の持参銀が六〇匁で、三ケ月間養育していた吉兵衛へ一五〇匁の養育費ということが、現代の我々には理解しにくいが、何か事情があったのであろう。捨子の親が名乗り出ても、親に返されず、養子先を探しており、仲介人昌元がこの一件で今後村方に迷惑をかけないことを誓約していることから、何か書面には出てこない事情が潜んでいたかもしれない。

 

日下村の捨子(『日下村森家庄屋日記』)

 享保十四年(1728)閏九月十八日の夜、日下村庄屋長右衛門の田んぼに捨子があった。二十一日になってこの捨子は日下村の半助の養子とすることになり、養育費として銀六〇匁と決め、三年間にわたって村方から麦で支払うことになる。この仲介人は日下村年寄の五兵衛であった。

 

 

五 旅先病人村送り(『川中家文書』―「嘉永四年書付扣」) 

 近世は庶民の旅が盛んになった時代であった。河内でも伊勢参宮をはじめ、各地の神社仏閣へ巡拝に出かける村人が多かった。彼等は村方から人別往来手形、旦那寺からは宗旨往来手形を受けてそれを持参しなければならなかった。その人物の宗旨と、確かな人物であるという証明をしてもらい、それを各地の関所で見せることで、無事に通行できたのである。その手形の中には必ず、

 

  若途中ニおいて病死いたし候ハヽ、其所之御作法を以、死骸御取置可被下候

 

という文言がある。どこで病死しようと、その所の作法で処置してくださいという意味である。 旅人が行路で病み、歩行困難となり、または死去した場合などには本人や荷物を「在所」まで村継ぎに送る制度を「村送り」「村継ぎ」という。幕府は享保十八年(1733)五月、諸国に旅中の病人、倒死者の扱いについて通達を出し、さらに明和四年十二月には詳細な触書を発した。

それによると、旅先で病気となった場合は、医師の療治を受けさせ、領主へ届けを出し、その者が在所への帰参を望む場合は、村送り状を添えて村継ぎに駕籠にて送り、村々で宿泊させ、食事を供し、薬を服用させること。途中において死亡した場合は、その所に仮埋にし、その者の在所へ知らせ、親類村役人に掛け合い、その所へ埋葬するか、在所へ引き取るか、希望の通りにさせること。旅先での事故死・自殺・他殺などについても、発見者の口書を取り、死骸の状態、死者の身元の確認をはじめ、死骸の処置についても詳細に指示している。

今米村川中家文書にも、そのような村送り人を次の村まで送った史料がある。それによると、芝村百姓庄兵衛は六七歳となった万延元年(1860)四月より諸国神社仏閣巡拝に出かけた。越前国敦賀郡駄口村迄来たところで病気になり、歩行は困難、路銀もないという状態となったが、それでも在所へ帰りたいと願った。彼は芝村の庄屋の人別往来手形と同村教蓮寺の宗旨往来手形を持参しており、確かな人物であったので、駄口村の庄屋・年寄の送り状を添えて、村継ぎに在所へ送られたのである。駄口村の送り状は次の通りである。

「芝村百姓庄兵衛は、諸国神社佛閣を順拝いたし、越州敦賀郡駄口村迄参ったところ、俄に病気になり歩行もかなわず、養生させても全快も望めず、路銀の貯えもなく、国元へ帰りたいとの願いであり、この村から村継ぎに送る次第でありますので、村々でもよろしく取計り村継ぎにお送りください。」との内容で、駄口村の庄屋・年寄の署名で、国々の関所と村々の村役人宛である。

七月十九日に駄口村を出て村継ぎに送られ、河内の中新開村に到着したのが七日後の同月二十六日であった。中新開村の送り状が次の通りである。

 

    覚

 

一送り病人        壱人

  但シ芝村庄兵衛と申者

一往来手形        一通

一送り出し書       一通

一寺送り         一通

一村々添書        数通((朱書))

右之通り送り来り候間、継送りニ候間、御改御受取可被成候 已上

 

   申七月廿六日   中新開村

 

村々添状が数通あり、これは、これまで七日間かけて村継ぎに送られた村々の数である。しかも朱書きにされている。これを受けた今米村では三人の村人を付けて駕籠で次の芝村へ送らせた。芝村への送り状が次の通りであった。

 

  左之通り中新開村より返り来り候所、当村より直ニ芝

村庄屋安五郎方へ、粂右衛門・佐助・吉右衛門三人之者ニ為送事右書面之通り中新開村より送り来り候ニ付、早々為送申候間、改御受取可被成候 已上

 

   申七月廿六日      今米村(押切)

          

芝村御役人中

 

「中新開村より送り来たので芝村へ三人の者が送り届けますのでお受取ください。」という内容であった。今米村から芝村までは約三㌔あり、三人の担ぐ駕籠で送り届けたのである。それに対する芝村庄屋の受取状が次のようなものであった。

 

右之通りニテ為送候所、尚又芝村より当村へ之受取書有之候所、尤左之通り也

 

     覚

一送り病人         壱人

  但シ当村庄兵衛ト申者

一往来手形         壱通

一送り出し書        壱通

一寺送り書         壱通

一村々添書         数通

 

右之通村次ニ御送り被下慥ニ受取、御苦労之段奉察入候 已上

 

   申七月廿六日        芝村

 

今米村 御役人中

 

本人の身柄から添付書類などの受取である。いずれも幕府の通達通りの形式を調えたもので、このような村送りについては村々での手続きが徹底されていた。

芝村庄屋の最後の文言(傍線の部分)「ご苦労の段察し入り奉り候」に、敦賀から七日間をかけての村送りで、、数ヶ村の村方の世話になったことへの感謝の思いが込められている。

村々では宿泊・食事・服薬の世話をはじめ、次の村へ駕籠で送り届ける人足などの経費負担もかなりのものであった。しかしこの様な制度が確立されていたということは近世の村落社会がもっていた共同体意識、常に周囲へ配慮しつつ、平和で穏やかな暮らしを維持していこうとする精神に基づいたもので、秩序を重んじる日本の近世社会の有り方を示しているといえる。

 

 

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