会報「くさか史風」第3号

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塩川家由緒書―石山合戦 浜田昭子

塩川家由緒書―石山合戦

 

水走村塩川家文書には由緒書が二通あり、一通は大坂の陣に関する由緒書であり、これはすでに会報「くさか史風」第2号で紹介した。他の一通には塩川家の石山合戦における事績が記されていた。今回はこの由緒書から解明したことを検証してみよう。

 

                     

塩川家由緒書

 

 

       [ 破 損 ]

                    由緒書

顕如上人御自筆之御裏書、并御自筆之脇掛、当家伝来仕候儀、元来即先祖は赤松家ニテ室町将軍足利家より、摂州深江・足代両村ニテ弐百貫之領地五拾石ニ中ると承り候(其時代銭拾貫文ニ米)

後小寺與八郎入道道喜と申候忰小寺善七郎則久と申者、将軍家没落之砌、顕如上人石山の城御籠被遊候ニ付、上人之御味方参り、難波石山城に籠申候、元亀四年五月七日信長公石山を御責被成申ニ付、興正寺顕尊上人御堅メ被遊候木津城攻を防き罷在候所、寄手勢ひ強く打死と覚悟極メ、前日上人江願ひ候テ、御真向并、御染筆乞請、則七日ニ木津表において敵方大津傳十郎と申ものゝ手ニて潔く打死仕候、其後石山和談相成、上人様紀州鷺の森江御立退被遊候、其砌善七郎弟ニ與七郎と申者、右善七郎妻子を引連、河州[虫損]城主杦原何某ハ所縁有之候ニ付、河州水走(古ノ名水早ト云)江立退、終に水走村居住仕候、今ニ右御真向、并御自筆之脇掛内佛奉崇候、其後小寺氏ハ故有之、母方の姓塩川と相改申候 以上

右之通代々申伝江承り申候、然ル處、右御真向・御裏書弐百余年内担ニ掛崇候ニ付、香の煙ニ燻り、紙も保ちかたく黒く文字等も一向拝れ不申候ニ付、興門跡様江御願申、新ニ御染筆奉願上候拠 御聞届被成下、寂聴上人様より御染筆被成下候 

安永五年   善七郎則久法名道泉八代孫

    丙申九月      塩川多田右衛門源滋之

                

(塩川澄子氏所蔵)                           

安永五年(1776)に認められた塩川家の戦国期の由緒書である。その内容を意訳すると、塩川氏の先祖は赤松家で、室町将軍足利家より摂州深江・足代両村に二〇〇貫文の領地を与えられた。後、小寺與八郎入道道喜の忰小寺善七郎則久が室町将軍没落の後、顕如上人に味方し、石山城に籠城した。元亀四年(1573)五月七日、信長に攻められた後、興正寺顕尊上人(本願寺一一世顕如上人の次男)が守る木津城に馳せ参じるものの、敵方の勢力が強く、討死の覚悟で上人に願い、御真向(まむき)と御染筆を乞い受けたのち、七日に敵方大津傳十郎の手にかかり討死した。 

その後善七郎の弟與七郎が善七郎の妻子を連れて、河州[虫損]城主杦原何某の所縁によって河州水走村に立ち退き、ここに居を定めた。小寺の名は故あって母方の塩川と改めた。御真向、并御染筆は二〇〇年の間に香の煙で黒くなり、文字も読み取れなくなったので、興正寺門跡に願い、寂聴上人から改めて下されたとある。

この由緒は、塩川家先祖が石山合戦で本願寺に味方して戦死したという本願寺への忠節を強調するものとなっている。登場する人物はすべて塩川家の過去帳に記されている。小寺與八郎入道道喜については、 

  天正十二年六月二日 釋道喜 小寺與八郎 小寺氏 

とあり、これが善七郎の父親である。忰小寺善七郎則久については、  

元亀四年五月七日 釋道泉 小寺長七郎則久 木津城戦死 顕如上人より法名賜る 

とある。名前の善が長になっているが、これが木津城で討

死した善七郎である。由緒書に「顕如上人より法名賜る」とあるが、過去帳にも「顕如上人より法名贈」とある。本願寺に対する忠節によって贈られたものであろう。最後の道泉八代孫塩川多田右衛門源滋之は、

 

  寛政七年二月五日 釋梅浄 塩川多田右衛門滋之 七十四歳

 

とある。これが安永五年にこの由緒書を認めた塩川多田右衛門滋之である。これらの人物の実在に関しては、過去帳で確認できるので信憑性は高いと思われる。

 しかしその内容について検証していくと、史実と異なる点がある。まず塩川家が赤松氏を祖先としている。赤松氏は播磨の守護職として室町幕府でも重きを成した守護大名であるが、塩川家の過去帳では、摂州多田庄山下城主塩川伯耆守源仲章[応永二十年(1413)没]を先祖としている。『摂陽群談』によれば、塩川伯耆守仲章は多田塩川家初代仲義の苗孫にあたり、山下城を築城した人物とされる。塩川家の過去帳にも赤松氏の記載はない。

塩川家の現当主塩川澄子氏の記憶によれば、この文書を認めた多田右衛門滋之が、中浜村(現東成区)の後藤治郎左衛門の弟で、後藤家は赤松氏を先祖とし、そこから養子に入ったため、滋之がこの由緒書に自身の出自を書き留めたものいう。この説は納得できるものである。

次に「室町将軍足利家より、摂州深江・足代両村ニテ弐百貫之領地」とある。塩川家は現在、河内郡水走、渋川郡足代、高安郡竹渕(たこち)と三家あり、深江・足代に二〇〇貫の領地を与えられたことが足代の塩川家に繋がったと思われる。足代の塩川家には古文書類や過去帳は遺っていないとのことで、このことを検証することは不可能であった。

水走の塩川家については、現当主塩川澄子氏よりこの二通の中世に関する由緒書の他に、過去帳と、若干の近世文書を提供していただいている。

竹渕の塩川家には、徳川家康から拝領したと伝わる葵の紋入の茶碗が現存する。また、真田信繁の仕掛けた平野の地雷火から逃れた家康が、竹渕の塩川家の大楠に馬をつなぎ、 藪の中に身を隠したと伝えられ、徳川家康馬繋ぎの楠跡の碑が現存する。また、大坂冬の陣の際、十二月に入って家康は茶臼山の陣に移り、総攻撃が開始されたが、この時家康の食事調達のために麦を探したが、河内表は戦乱のために百姓は山へ避難し、穀物も山へ持ち込んでいたため求められなかった。これを聞いた竹渕の塩川弥左衛門は麦二石、同じく東郷村の木村惣右衛門は麦三石を献じた。このため、茶臼山御陣御台所諸役人よりの受取を頂戴している。この現物は遺っていないが、塩川家古記録に載せられている。(『八尾市史』)このように、大坂の陣における徳川家康との由緒はあるが、石山合戦に関する由緒はない。

次に、「興正寺顕尊上人御堅メ被遊候木津城」とある。石山本願寺は防御のために五一城に及ぶ支城を配しており、その中に木津城があることが『信長公記』に記されている。

木津城は水上交通の要衝であった大坂の木津河口に築かれ、本願寺への水上輸送を受け持つ重要な出城であった。木津城に詰めていたのは木津村民の崇敬を集めた願泉寺と唯専寺の門徒衆であった。ここに興正寺顕尊上人も詰めていたのかどうかは史料で確認できない。

この木津城において「小寺善七郎則久が元亀四年(1573)五月七日敵方大津傳十郎の手にかかり討死」とある。元亀四年とあるが、これは天正四年(1576)の天王寺の戦いと思われる。この由緒が戦国期より二〇〇年にわたり、書き継がれるうちに書き誤ったものであろう。

天正四年五月三日、木津城は織田軍に攻められたが反撃し、織田軍を天王寺砦に追い詰める働きをしている。しかし五月七日、信長は三千ほどの兵で本願寺勢一万五千に突撃し、本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、織田軍の大勝となった。(『信長公記』) 

この戦いで小寺善七郎則久は戦死する。討死の前夜、上人に願い、御真向(親鸞聖人の正面向きの画像)と御染筆を乞い受けたが、二〇〇年の間に香の煙で黒くなり、文字も読み取れなくなったので、門跡に願い、寂聴上人から改めて下されたとある。寂聴上人は安永時代の興正寺の住職である。

興正寺とは、現在は京都市下京区の西本願寺の南に隣接する真宗興正寺派本山であるが、永禄十年(1567)に本願寺顕如上人の次男顕尊が入寺し、石山本願寺の脇門跡に任じられたという由緒を持つ。現在の興正寺の大原観誠氏によれば、寂聴上人は西本願寺に断らず独自に御影類や染筆名号を授与していた人物であったとのことで、明治九年(1876)には独立して興正寺派本山となった。

塩川家の現当主澄子氏にこの御真向の存在を確認したところ、古くから伝わるお軸の写真を送っていただいた。これを興正寺の大原観誠氏に検証をお願いしたところ、冊子であった和讃を切り離し上下に張り付けたものであるとのことで、しかも西本願寺所蔵の文安六年(1449)と長禄二年(1458)の蓮如上人直筆の同文の写本と筆跡が同じであるので蓮如上人直筆の和讃であることが判明した。

石山合戦よりもはるかに古いものとなる。本願寺八世で本願寺中興の祖として著名な蓮如上人直筆の和讃は現在遺っているものも少なく、大変貴重なもので大発見であるとのことであった。

この他にも、塩川家には古いお軸があり、由緒にある御真向かもしれないと思われたが、このお軸は経年のために真っ黒になっており、内容の判別は困難であった。

その後、善七郎の弟與七郎が善七郎の妻子を連れて、河州水走村に立ち退き、ここに居住した。小寺の名は故あって母方の塩川と改めたという。最後に「塩川多田右衛門源滋之」とあるが、源の署名については、『大昌寺文書』の塩川家の項に、「河内塩川家ノ祖先ハ源頼光ノ嫡子頼仲」とある。また、『姓氏家系大辞典』によれば、

 

橘姓楠木氏、河内国の豪族にして、『長禄寛正記』に「河内衆塩川」、『細川両家記』に「塩川孫太郎」等見ゆ。また河内国渋川郡東足代村の人に塩川道喜あり、聖源寺を開く。もと小寺氏と称せり

 

とあり、東足代村の塩川道喜は、まさに戦死した小寺善七郎則久の父親である。塩川道喜が開いた聖源寺については、現在の高井田西に「聖源寺題目碑」がある。念唱寺の北西の一角に、台座を含め高さが3.8㍍の大きなもので、正面に「南無妙法蓮華経 法界」側面には「享保十二年 河州渋川郡 東足代村 聖源寺」とあり、裏面には複数の人物の戒名と命日が刻まれている。

聖源寺は天正十三年(1585)に建立され、その境内には二間、三間半の本堂があり、寛政四年(1792)頃に廃絶したという。明治五年(1872)に門前にあったこの題目碑が、寺の跡地より北400メートルの現在地に移設されたとのことである。(『中河内廃寺』)善七郎の他に、塩川家ではもう一人石山合戦で戦死した人物がいる。

 

天正五年(1577)二月九日、織田信長は軍勢を集めるため、兵一〇〇人を従えて阿倍野から京を目指して奈良街道を通過していた。当時この道筋にあたる足代村には小寺美濃守高仲がいて、本願寺に味方していたので、敵の総大将である信長を見逃すわけにはいかず、奈良街道で待ち伏せし信長を襲撃した。しかし信長護衛の兵は歴戦の勇士であったため、高仲勢の一族は悉く討ち取られ、高仲はわずか十八歳で討死した。小寺家は家名断絶領地没収となり、高仲の母方の塩川を名乗ることになった。塩川家では戦死した一族の供養のため、足代に了月庵という禅宗の尼寺を建てた。了月庵は正徳六年(1716)に日蓮宗に宗旨替えをし聖源寺となった。享保十二年(1727)に寺の正面に題目碑を建てたが、明治五年(1872)に廃寺となり、題目碑は高仲の墓のある念唱寺に移した。

(『高井田誌』(名村利夫・2015年大西正曹編纂)

 

とあって、小寺美濃守高仲が石山合戦で戦死し、その後に塩川を名乗ったということは前の善七郎と同じ伝承となっている。詳細な記述であるが、『高井田誌』のこの部分の記述は、平成九年の『たかいだ』第13号を引用しており、この著者である名村利夫氏はすでに亡くなられている。『高井田誌』を2015年に新たに編纂された大西正曹氏もこの部分の参考史料については不明とされていて、この伝承の出典は確かめる術がない。

小寺美濃守高仲を水走塩川家の系譜に探しても見当たらず、足代の塩川家には系譜が伝えられていないので、この高仲という人物が実在した確証は得られなかった。現在この題目碑がある念唱寺にも高仲の墓は確認することはできなかった。

 聖源寺の題目碑の裏側の碑銘の拓本を取って次ページに挙げた。聖源寺の建立が石山合戦で戦死した先祖の供養のためであれば、この題目碑にもその法名が刻まれているはずであるが、石山合戦で戦死した善七郎や高仲の法名は見当たらない。天正年間から寛永年間にかけて亡くなった一〇名の法名が刻まれているが、その人物はいずれも水走村塩川家の過去帳には見当たらない。

 いずれにせよ、石山合戦より四四〇年という年月を越えて言い伝えられたことであり、その史料も当時の一次史料ではなく、近世に書き留められた由緒であり、真実を探ることは至難と言わざるを得ない。

水走村塩川家の系譜では、応永二十年(1413)四月十八日没の塩川伯耆守仲彰を始祖とし、塩川家に蓮如直筆の和讃が存在することは、塩川家が十五世紀からの歴史を積み重ねてきた旧家であることは間違いない事実であろう。 

会報「くさか史風」第2号で紹介した通り、水走の塩川佐左衛門重長は大坂の陣の際に家康に忠節を尽くして戦死した人物である。その四〇年前の石山合戦でも同じ一族の小寺善七郎則久が戦死しているのである。

このことで、戦国時代に塩川家の先祖が、当時の河内における有力な国人として、戦乱の中で華々しい活躍をした事実があったことが証明できる。河内において、大坂の陣と、石山合戦での活躍を書き留めた文書が発見されることは非常に珍しく、水走塩川家のこの二通の由緒書はその意味で貴重な史料であるということができる。

 

聖源寺題目碑 西高井田

生駒山人 「野里屋」養子時代と養子解消の真相  山路孝司

生駒山人 「野里屋」養子時代と養子解消の真相

           ー『生駒山人傳』に依拠しつつー

 

                    山路孝司

はじめに

 

河内に名高い漢詩人である生駒(いこま)山人(さんじん)は、日下村の庄屋森家に生まれ、十一歳で大坂の商家で南組惣年寄であった野里屋四郎左衛門家に養子に入る。しかし二十二歳になった享保十八年(一七三三)に養子を解消し、日下村へ帰る。この山人の野里屋養子時代と養子解消の真相を、山人自身の手になる『生駒山人傳』によって検証していきたい。

 

一 生駒山人自著『生駒山人傳』(註1)の該当箇所

 

雄年甫十一           雄年甫十一

為浪華野里子        浪華野里子の

所子養             子として養はるる所と為る

野里子即             野里子即ち

南市長坊間           南市長坊の間

一頗所推重者         一に頗る推重さるる者

然一上政府           然れども一たび政府に上がれば

則雖僕御乎           則ち僕御と雖も

不敢礼之             敢へて之を礼せず

況諸吏属司           況んや諸吏属司をや

私嘆曰               私に嘆じて曰く

貍首在前             貍首前に在り

不虎尾在後           虎の尾後ろに在らず

今我其貍首乎         今我其の貍首か

我寧為虎尾而己       我寧ろ虎の尾と為らんのみ

後遂辞帰             後遂に辞して帰る

                  (原漢文 書き下しは山路による)

 

二 『生駒山人傳』の検証

 

1 山人野里屋へ養子に入る

 

雄年甫十一           雄年(ねん)甫(ぽ)十一

為浪華野里子        浪華野里子の

所子養              子として養はるる所と為る

 

「雄」は孔文雄で生駒山人のこと、ここでは「私」の意。「年甫」は年の始め。年首。年始。享保七年(一七二二)壬寅、年始で十一、つまり数え十一歳になる年、大坂の「野里屋四郎左衛門家」の養子となった。

享保十三年(一七二八)戊申、十七歳四月には疱瘡に罹り九死に一生を得ている。(註2)

 

 野里子即             野里子即ち

   南市長坊間           南市長坊の間

一頗所推重者         (いつ)に頗(すこぶ)推(すい)重(ちょう)さるる者

 

 野里屋は大坂南組の惣年寄であり、大坂でも屈指の有力商人であった。

 

2 野里屋四郎左衛門家の概略

 

 「野里子」すなわち「野里屋四郎左衛門家」の草創から最期までを概略辿ってみたい。 宮本又次著『大阪町人論』(註3)に次のような記述がある。

大阪の南組惣年寄の一人に、野里(屋)四郎左衛門というのがあった。これも武士から町人に転身した例である。大阪陣の時に直政公が真田丸へ攻めかけた。そうして柵をくぐって入ろうとすると敵方のものがバラバラと出てきて若大将を生捕りにしようとしたが、直政が菱(山路注「葵」の誤植であろうか)の御紋のついたのを着ているのを見て、大阪の運命はすでに旦夕に迫っている。何もこの人を生捕らなければどうということもない。それよりこうした大将を助けておいたら、後日の「有(あり)付(つけ)」にもなるだろう。というので討たずに皆引込んだ。直政は急に馬を進めて城の近くまで行って、そこにいるのは何者だ。自分は越前少将の弟出羽守直政である。何とて敵対せぬか、というと、野里四郎左衛門が進み出て、あなたは御若くもあり、勇ましくもある御大将なのだから誰もお敵対しません、と答えた。直政は笑って、手向かいせぬのなら塀の下まで案内していけといって野里を先に立てて乗入ろうとしたところへ、本陣から引揚げろという命令があったので、直政も引揚げた。その時見ていた大阪方の者を陣屋へつれて来て、革財布の中から小粒を両手で摑み出してやった。そうしたらその金をもらって四郎左衛門以下のものは武士をやめて、相当の町人となり、銭屋といったというのである。戦争最中に「後日の有付とならんとて」なぞ考えるのは随分ひどいと思うが、ここで注意すべきは「男をやめて町人となり」ということである。男をやめるというのは武士をやめることだ。こうして武士から町人に転化した者が多いのである。(以下略)

 この野里屋四郎左衛門が、次に記す資料の「野里屋正圓」であろうか。また、「越前少将」とは越前福井藩主、松平忠直、「弟出羽守直政」は後に出雲松江藩初代藩主となる松平直政であろう。この兄弟は徳川家康の孫にあたる。宮本又次氏は、どのような史料に依ったのかは、書いておられない。                

『浪速叢書』(註4)巻九「大阪商業史史料」に「南組惣年寄先祖家筋書」が掲載されている。野里屋四代の「惣年寄」の在任期間が記されている。(原漢文を要約、補記)

曾祖父  野里屋正圓   内本町橋詰町住宅

         久貝因幡守 島(嶋)田越前守時代

                 寛永三年(一六二六)寅年より

         寛永十三年(一六三六)子年まで 

(同年病死) 十一年間

 

 祖父     野里屋四郎左衛門

                 松平隼人正 曾我丹波守時代   

                 萬治二年(一六五九)亥年より

                 延寶四年(一六七六)辰年まで 

(同年隠居) 十八年間

 

 親       野里屋四郎左衛門

                 彦坂壱岐守 石丸石見守時代

                 延寶四年(一六七六)辰年より

                 寶永三年(一七〇六)戌年まで

(同年隠居) 三十七年間

(当代)   野里屋四郎左衛門

                 太田和泉守 大久保大隅守時代

                 寶永三年(一七〇六)戌年より

                 當 亨保十二年(一七二七)未年まで 

         二十二年間 

 生駒山人は享保七年(一七二二)に養子に入っているので、この史料での当代の野里屋四郎衛門が養父ということになる。「先祖家筋書」提出の享保十二年(一七二七)以降も惣年寄を継続して務めていると思われる。生駒山人も養子を解消していなければ、野里屋四郎左衛門を襲名し、惣年寄を継承していたはずである。惣年寄は世襲であった。日下森家と野里屋は、これ以前から姻戚関係にあったようである。

 代々の四郎左衛門の左に書いている二名の武士の名は、先が東町奉行、後が西町奉行である。(但し「親」の四郎左衛門のところだけ、先が西町奉行、後が東町奉行となっている。)

 右の史料の「祖父」の四郎左衛門時代の奉行の一人、曾我丹波守は曾我近祐である。その父の丹波守古祐も西町奉行を務め日下村の庄屋、森家、河澄家と縁の深い人物である。日下村には曾我古祐を祭神とした「丹波神社」がある。

 惣年寄の在任期間と、東西奉行の在任期間が当然きれいに重なる訳ではないので、惣年寄就任当時の東西町奉行を各一名だけ記している。(ただ、「曾祖父」の四郎左衛門が惣年寄に就任した時の東町奉行は河内守水野信古であった。)

 特に「親」の野里屋四郎左衛門は三十七年間と在任期間が長く、ここに記された彦坂壱岐守重治、石丸石見守定次以後の奉行時代にも惣年寄を務めている。「当代」の四郎左衛門についてもここに記された太田和泉守好寛、大久保大隅守忠形以後の奉行時代も惣年寄を務め、この時点では、いまだ在任中である。

  江戸時代初期より、幕府は大坂では町民(商人)の代表に行政の末端を担わせていた。大坂の町を大川より北の「天満組」、大川から本町通りまでを「北組」、本町通りより南を「南組」の三郷に分け、それぞれに五、六名の「惣年寄」を置いていた。また、それは世襲されている。

ちなみに、大坂では南北の道路を「筋」、東西の道路を「通り」と使い分けている。「野里屋」の所在地は、史料の祖父の項目以降、特に書かれていないので少なくとも、この四代の間は「内本町橋詰丁」にあったと思われる。現在も大阪市中央区に「内本町」という町名は存在する。内本町の橋とは東横堀川にかかる、本町通りの「本町橋」である。

内本町橋詰丁は本町橋を東に渡った方の本町通りの南側、東横堀川に沿うように南北に連なる地域にあった。本町通りを隔ててすぐ北側には「西町奉行所」があった。現在その跡地に大阪商工会議所のビルがある。東に向かうとすぐ大阪城がある。南東の農人町一丁目には三郷南組の「惣會所」があった。

「南市長坊の間」と書いているのは「南組」と唐の都長安の「南市長坊」とを重ねたものであろう。

元禄九年(一六九六)四月刊の、大坂案内記『難波丸』(註5)に「南組惣年寄 内本町橋詰丁 野里や四郎左衛門」とある。右の史料の「親」の代に当たる。

 後に述べる天明四年(一七八四)生まれの野里屋四郎左衛門(梅園)は大坂質屋年寄も務めていたということから、野里屋の本業は質屋などの金融業であったと推測される。また(いと)(わっ)(ぷ)仲間でもあった。

「一に頗る推重さるる者」と自ら書いているように、野里屋は大坂でも屈指の有力商人であった。「推重」は尊敬する。尊び重んずるの意。

 

 3 野里梅園とその父のこと

 

 右記の四代の後、数代については未詳であるが、その後の代の四郎左衛門に「野里梅園」という人物がいる。『大阪人物誌』(註6)「野里梅園」の項目に次のように記されている。

  野里氏 本氏毛利 名は元壽 字は崇年 通偁四郎左衛門 梅園と號す 浪華の人 常盤町に住す 大阪町年寄たり 能く物産學に精通す 旁ら古器を愛玩し且つ鑑定法に兼ねて煎茶の技を嗜む 天保の頃の人なり

とあり、その後に『梅園奇賞 二 』他八種の著作名が列挙されている。但し「本氏毛利、名は元壽 能く物産學に精通す」という部分は別人と混同したもので誤りである。毛利(もと)(ひさ)は江戸在住の旗本(江戸幕府書院番)であり『梅園画譜』を著した本草学者でもある。野里梅園とほぼ同時代人であるため(野里梅園の方が十四歳ほど年上)混同したのであろう。(後述の多治比郁夫氏の論考による。)代々「野里屋」を屋号としているが、姓も「野里氏」であったようである。(『浪華煎茶大人集』天保六年跋)

 野里梅園は狂歌を翫(もてあそ)び、文人画もよくした。文政四年(一八二一)には、近松門左衛門の碑文を書くように大田南畝に依頼している。この碑文は、経緯は省略するが、石碑に彫られ「平安堂近松翁(ぼ)(けつ)」として、大東市寺川の法妙寺境内に現存する。このような文人肌の当主が出ているのが興味深い。なお『大阪人物誌』では居所が内本町ではなく常盤町になっている。内本町橋詰丁のすぐ東側の通りで近所である。常盤町への移居は梅園の代になってからのことである。

内閣文庫所蔵の『近代著述目録』後編 四に「野里梅園 名 正椿 字 大椿 称 四郎左エ門 浪花人」とあり著述として

  標有梅 二 、長崎紀行 二、繪巻目録 一、梅園奇賞 一、浪華書畫 一、仙華帖 一、續仙華帖 一

を挙げている。

 多治比郁夫氏の論考「野里梅園のこと」(註7)によると

「梅園の狂歌師としての名は大江(おおえの)(ひ)(さと)、別号梅廼屋。梅園の父も狂歌を詠み、号は浦(うら)辺(べの)沖(おき)風(かぜ)、別号松雲樓、初名春(はる)摘(つみの)磯(いそ)菜(な)という。父子とも鶴(つる)廼(の)屋(や)乎(を)佐(さ)丸(まる)の門下であった。鶴廼屋乎佐丸は紀(きの)乎佐丸とも称した。」(概略)とある。

ところが、平(へい)亭(てい)銀(ぎん)鶏(けい)の『難波 金城 在番中 銀鶏雑記』(註8)三には銀鶏が大坂滞在中に付き合った人物三十余名の筆頭として次のような紹介がある。    

 常磐町壹丁目谷丁少シ西入 ○狂歌師 鶴廼屋乎佐麿

  大坂三年寄の内 野里四郎左衛門隠居 出生江戸の人

   故あって此地へ来り住居すること二十年 南畝社中

也 浪花にても社中多くして頗る風流家の高名なり

八十一歳にして壮健無事 性戯場を好み市川白猿 岩井紫若 中村梅玉等と交り深し (以下略)

梅園が当主であった時代に野里四郎左衛門隠居といわれた人物(梅園の父で先代四郎左衛門)は狂歌師で鶴廼屋乎佐麿と名乗ったと銀鶏は書いている。 

平亭銀鶏は上州甘(かん)楽(ら)郡七日市の前田侯の藩医である。主君が天保五年(一八三四)八月四日から翌天保六年八月四日まで加番として大坂にある間、藩医として同行し、その期間に記録したものである。次の項目には「古物家」として野里四郎左衛門(梅園)が紹介されている。居所は両人とも同じである。ちなみに市川白猿は五代目市川團十郎で

狂歌師としての名は「花道のつらね」と称した。(註9)

鶴廼屋乎佐麿すなわち野里屋隠居はこの年八十一歳とあるので宝暦四年(一七五四)の生まれであろうか。二人が付き合った天保五、六年の頃には師の鶴廼屋乎佐麿の名を継いでいたのであろうか。

ちなみに東京都立中央図書館加賀文庫所蔵の『浪華金襴集』文政六年跋版には、「狂歌 谷町 乎佐丸 鶴廼屋」と記されている。また、野里梅園の著書『如是我聞』に「鶴廼屋乎佐丸の名譲りのこと」(天保十二年)という記事があるという。野里屋隠居が別の人に名を譲った可能性もある。

 再度、多治比郁夫氏の論考「野里梅園のこと」によると

野里梅園は大塩平八郎の乱(天保八年二月)の事件当日の早朝、東町奉行、跡部山城守から大塩宅の様子を探るよう依頼され、大塩宅の隣家にひそんで動静をうかがい、やがて奉行所に立ち戻り山城守に報告している。天保八年十二月、惣年寄りの職務として将軍宣下のお祝い言上に江戸へ出張している。歳首や大礼のつど将軍に拝謁し献上物を捧呈するのも惣年寄りの職務であった。このたびは大塩騒動の直後であっただけに幕閣に呼ばれ、事件の経過を物語ることとなった。その談話が書き留められて『野里口伝』として伝わる。跡部山城守良弼の実兄は、時の老中水野忠邦である。水野忠邦は唐津藩主であった時代から、互いの古文書への興味を通じて野里梅園と懇意であった。

 追記すれば、大坂安堂町の古書肆店主、鹿(しか)田(た)古(こ)丼(たん)著『思ゐ(ママ)出の記』(註10)に「野里梅園先生は、大坂惣年寄りの壱人にて内本町に住す。一時丁内頼(たの)母子(もし)講の事にて忌避に触れ、後播州高砂にて終(おう)聞(きく)。」と書かれている。天保十四年(一八四三)の暮れ、五十九歳のことという。これ以後、野里屋は惣年寄りを罷免されたのであろうか、幕末に書かれた大坂惣年寄りの名簿には野里屋四郎左衛門の名はない。

この年、閏九月十三日、老中、水野忠邦は失脚している。

 

4 生駒山人、野里屋養子解消の真相

 

然一上政府           然れども一たび政府に上がれば

則雖僕御乎           則ち僕御と雖も

不敢礼之             敢へて之を礼せず

況諸吏属司           況んや諸吏属司をや

 

 町人社会では「一に頗る推重さるる者」であっても、封建的身分制社会にあって、「惣年寄」の後嗣として武士と関わることの多かった生駒山人にとっては、不愉快なことも多かったように思われる。

「政府」は西町奉行所などの幕府機関であろう。「僕御」は御者、「属司」は下級役人の意。如何に文化的教養を積んだ大店の後嗣といえども一旦役所に赴くと、御者、下役にまで、ぞんざいに扱われる。

 

私嘆曰               (ひそか)に嘆じて曰く

貍首在前             貍首前に在り

不虎尾在後           虎の尾後ろに在らず

今我其貍首乎         今我其の貍首か

我寧為虎尾而己       我寧ろ虎の尾と為らんのみ

  

 生駒山人による野里屋への養子解消願いの理由を、推測しうる史料としては『生駒山人傳』のこの部分のみであろう。「貍」は「狸」の異体字。「狸の頭」が前にあって、「虎の尾」が後ろに無いとは、商人のあり方への自己批判であろうか。生駒山人の詩人的、文人的気質からして、言葉巧みに役人に取り入るような狡猾なことが、できなかったということであろうか。

自分は今「狸の頭」になろうとするのか。いや、それはできない。自分は「狸の頭」になるぐらいなら、誰にも媚びず、節操をもって尾であってもよいから「虎の尾」になろう。

それが生駒山人の思いであり、それが昂じて養子解消願いとなったと思われる。

 父、森長右衛門としては、長男を養子に出してまで、子の出世と森家の安泰を願ったのであろうが、生駒山人の気質が商人に向かなかったということであろう。

 

 後遂辞帰             後遂に辞して帰る

 

 浜田昭子著『かわち日下村の江戸時代』(註11)に「享保十四年(一七二九)九月、野里屋では勝二郎(生駒山人)に野里屋の若名である新助を名乗らせ、惣年寄名代として大坂町奉行所に出仕させる。彼は父長右衛門に町奉行に届く全国の情報を手紙で知らせている。ようやく商人としての自覚が定まったかに見えたが、二十一歳を迎えた享保十八年養子を解消する。」とある。

「後遂に辞して帰る」の「後」とはこの享保十八年(一七三三)数え二十二歳の時のことである。「辞」は、あいさつを述べて去る。いとまごいをする。

『日下村森家庄屋日記』(註12)享保十八年六月三日の記事に、「野里屋四郎左衛門より新助不縁之儀、昨日同役中より御番所へ御断申上候旨手紙差越候」とある。

六月三日、野里屋四郎左衛門から、山人の養子解消の届を大坂町奉行所へ提出した。こうして山人は大坂での出世を棄てて日下村に帰り、農業の傍ら、漢詩人としての道を究めていくのである。彼らしい生き方といえよう。この後、彼の努力は『生駒山人詩集 全七巻』として結実することになる。父の期待に背いた不肖の息子であったが、生駒山人の漢詩人として成し遂げた業績は、父の思いもしなかった名声を河内にもたらすことになったのである。

 

1 枚岡市史編纂委員会扁『枚岡市史』第四巻資料編(二)(枚岡

市役所 一九六六年)所載 森家史料   加納森家所蔵本

宝暦二年(一七五二)秋八月 河内孔文雄(生駒山人)自譔とある。この年の十二月大晦日に山人は亡くなっている。

『生駒山人傳墨本』は生駒山人自著、龍草廬書、佚山禅師題辞(篆刻)として宝暦四年(一七五四)に刊行されている。「墨本」とあるので書家でもある龍草廬の書の法帖としての用途もあった。「正面版」の印刷技法を用いており、従って文字は白抜き文字になっている。十二葉からなる折本で本文は一行八字・六六行からなる。山人の文の後に、龍草廬の文、山人未亡人足立周の文、京都の人、李景義汝質(草廬の門人)の文をいずれも漢文で載せている。

2 日下古文書研究会編『森長右衛門貞靖著 日下村森家庄屋日記享保十三年度』(発行 日下古文書研究会 二〇〇五年)所載事項解説二 浜田昭子「勝二郎の疱瘡」

  および『くさか史風』第2号 シリーズ「『日下村森家庄屋日記』にみる江戸時代」 第二回 勝二郎の疱瘡 による。

3 宮本又次著『大阪町人論』(ミネルヴァ書房 一九五九年刊)

第一 大阪商人の成立  四 初期の由緒ある町人 

4 船越政一郎著『浪速叢書』第九巻所載 名著出版 一九七八年 浪速叢書刊行会 一九二九年刊の復刻)

5 塩村 耕編『古版 大坂案内記集成』(和泉書院 一九九九年)

所収

6 石田誠太郎著『大阪人物誌正編』 (臨川書店 一九七四年 石田文庫 一九二七年刊の復刻)

7 『京阪文藝史料』第三巻 (青裳堂書店 二〇〇五年)所載

8 中村幸彦・長友千代治編『浪花の噂話』(汲古書院 二〇〇三年)所載 なお、このことについては藪田貫著『武士の町 大坂』 中公新書 (中央公論新社 二〇一〇年)「第五章 大阪城の内と外」で紹介されている。

9 日野龍夫著『江戸人とユートピア』 岩波現代文庫(岩波書店二〇〇四年)虚構の文華―五世市川団十郎の世界

10 四元弥寿著 飯倉洋一・柏木隆雄・山本和明・山本はるみ・四元大計視編『なにわ古書肆 鹿田松雲堂 五代のあゆみ』上方文庫三九(和泉書院 二〇一二年)所載 史料8 古丼遺稿『思ゐ出の記』 なお古丼は二代、静七の号である。

11 浜田昭子著『かわち日下村の江戸時代 森家庄屋日記享保十二、十四年 解説書』所載「一 森長右衛門貞靖とその家族」(私家版 二〇一三年)

12 『日下村森家庄屋日記』 享保十五年・十七年・十八年度

 (日下古文書研究会 二〇一六年)

 

生駒山人傳
懐徳堂碑  
生駒山人墓

サイメ考   長谷川 治 

「サイメ」考     長谷川 治

 

「森家庄屋日記」享保二十年四月十日に「・・・西向山ノ根半三郎境目ノ塀今日仕立・・・」とあり、二日後の十三日に「西向山ノ根半三郎サイメノ新土手ヘイ崩ル」とある。これら二つの記述から、「境目」はどうも「サイメ」と読んでいたのではと思っていたところ、浜田先生から「境目はサイメまたはサイメンと言っていた」との体験を踏まえた教授があり、大変興味深かった。

その後、日下より少し南の四条村の農事日誌「午年日記帳」弘化四年に目を通していたら、正月十二日に「・・・徳兵衛屋敷続ニ付、才面西二間東一間三分譲り呉候様頼候・・・」とあり、河内では境目を「サイメン」と言っていたのが裏付けられた。「境目(サカイメ)」の「カ」がいつの間にか脱落して「サイメ」と呼ばれるようになったのだろうと考えられる。因みに手元の『広辞苑第七版』でも、「さいめ」の項に(サカイメの転か)とある。「サカイメ」が転じて「サイメ」になった、それで説明が付くと言ってもよさそうだが、実はそう単純ではないというのが今から述べる仮説である。

源氏物語に「区切り、さかい」の意味で「きはめ」という言葉が使われている。漢字をあてるなら、「極め」ではなくて、「際目」である。枕草子の有名な一節「・・・やうやうしろくなりゆくやまぎはすこしあかりて・・・」の「きは」である。もし「きはめ」が漢字で「際目」と表記されていたら、これを「サイメ」と重箱読みしてしまってもおかしくはない。そしてこの「サイメ」を耳にしたり、仮名表記のものを読んだりすると、もはや「キハメ」という言葉を連想するのは困難である。

境界の意味で「サイメ」と言った時に単純に「境目」に結びつける人がいても不思議ではない。なにしろ「際目」の意味は「さかい」なのであるから、口では「サイメ」と言いながら、これは境目の事だろうと「境目」と字を当てる、そんなことが起こったのだろう。それが定着してしまうと、「境目」と書いて「サイメ」と慣用的に読むことになる。

手元の辞書で「際目」を調べてみると、古語辞典には「きはめ」の読みしか出ていないが、国語辞典によると「際目」=「境目」とあり、読みは「さいめ」だけであって、「きわめ」「きはめ」という読みは挙げられていない。つまり、「際」は窓際・生え際等の形で現代語につながっているものの、「際目(キハメ)」という名詞に限っては、古語としてのみ扱われていて、同じ漢字ながら「際目(サイメ)」は現代語として認められているということになる。

「サカイメ」が転じて「サイメ」となったのではなく、むしろ順序は逆であって、「キハメ」→「際目」→「サイメ」→「サイメ=境目」となったのではないか。これが今回提示した私の仮説である。

この仮説を検証したく、「日本国語大辞典」をひくため図書館に出向いた。

もし「キハメ」より「サイメ」の方が古いとか、「サカイメ」の方が早くて、「サイメ」は後で登場するということになると、私の仮説は成り立たない。結果的には仮説の根底が覆ることはなかったが、わが国最初の辞書ともいわれる「色葉字類抄」(一一〇〇年代に成立した古辞書)に「際目サイメ」とあることがわかり、ことのほか古い言葉だと知った。前述した源氏物語はそれより一〇〇年ほど前であるから、矛盾は生じないが、源氏物語での「きはめ」の用例をみると、時間的な区切りとしての「きは」であった。勿論、空間的な区切り、境界という意味の「きはめ」も、日本国語大辞典に記載されている。

また日本国語大辞典には「きわめ」「さいめ」ともに用例が引用されているが、次の二つの引用を比べていただきたい。

「右件田畠荒野竹原等者、雖為勝徳相伝、際目等之相論常不絶」(高野山文書・僧勝徳田畠等去状・一二四八年)

「両国四隣詳解林谷之際目」(春華秋月抄草・笠置寺大法師等解案・一一九七年)

どちらも境界の意味でつかわれているが、一方が「キハメ」でもう一方が「サイメ」と読むらしい。どちらが「サイメ」の引用かおわかりだろうか。私には区別がつかない。ただこの事実は、私の仮説を否定するものでなくて、むしろ、際目を「キハメ」「サイメ」の両読みする時期があったことを示唆しているのではないだろうか。

近世に入ると「キハメ」の用例は見つからないが、一方「サイメ」は用例に事欠かない。しかも、仮名書きであったり読み仮名があったりしていて、確実に「サイメ」と発音していたことがわかる。近世に至って「際目」を「キハメ」と読むか、「サイメ」と読むかは迷わなくてよくなったと言えよう。「サイメ」なのである。「境目」もまた「サイメ」なのである。読みとしての「キハメ」は完全に退場して「サイメ」だけが生き延びたと言えよう。

もう少し傍証を挙げよう。

明応本節用集(室町時代中期に成立した用語集)に「際目サカイメ」とある。これで、際目に関して「キハメ」「サイメ」「サカイメ」の三つの読みが出そろった。「キハメ」と「サイメ」の読みが文献に挙がった時期にさほど開きはないが、「サカイメ」を書き留めた明応本節用集は一四九六年成立であるから、「サイメ」が「色葉字類抄」に採録されてから、三〇〇年ほど遅れるのである。このことも、「サカイメ」転じて「サイメ」になるという説が成り立たないことの傍証と言えよう。

さらに、もう一点。「sakai-me」が「sai-me」に変化する現象は、音節脱落と呼ばれるものだと考えられる。代表的な例を挙げれば、「kaha-hara」が「kawara(河原)とか「ao-yanagi」が「aoyagi」(青柳)といったものがある。この場合、音節脱落後も元の語義は連想できる。「yagi」から「yanagi」が連想できるのかという反論もあろうが、「やなぎ」の語源が「矢の木」、つまり矢の材料にする木ということを考えると、「yagi」とつづめたところで語義は損なわれない。

一方、「sakai」から「sai」への変化はどうであろうか。「境」とは「さか」の動詞「さかふ」の連用形「さかひ」が名詞として定着したものだと言われている。「さか」とは「坂」であり、「裂く、割く」と同源である。これらの事を突き合わせると、「sakai-me」が「sai-me」に変化したと考えるのはいささか無理があって、仮に脱落が生じたとしても、「サイメ」ではなく「サカメ」となるように思える。ここまでいくつかの傍証も挙げて、私の仮説の説明、つまり「広辞苑」に記述されている推測が成り立たないことを論じてきたつもりである。もし専門家並びに「広辞苑」編集者の御意見を聴かせていただく機会があればと、願っている。

また、「日本国語大辞典」は親切にも「さいめ」に関連する方言を、出典を明らかにした上で採録している。

方言さいめん(土地の境界)

出典は宮本常一の「河内国滝畑左近熊太翁旧事談」であった。やはり、河内では「サイメン」と言い慣わしていたのだ。

その他、「サイメ」の一言で「土地の境界に立てる杭」を意味する例を、山口県の方言として採録している。

出典は「長門方言集」(重本多喜津著)とあった。この重本多喜津は、偶然にも筆者が一昨年から調査研究している人物で、山口県の教育者にして郷土史家である。詳細は、当研究会第十一集「忍耐堂見聞雑誌」掲載の拙稿「重本多喜津略歴」を参照していただきたい。

果たして私の仮説にどれほどの信憑性があるのだろうか。今、虚実の境目に立ち尽くしている。(了)

 

 

参考文献

日本農書全集第四三「午年日記帳」農文協

新日本古典文学大系「源氏物語」五、三六一頁 岩波書店

全訳古語辞典 旺文社

小学館デジタル大辞泉

広辞苑第七版 岩波書店

日本国語大辞典 小学館

新明解語源辞典 三省堂

 

 

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