明治の医師の日記『忍耐堂見聞雑誌』刊行

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『忍耐堂見聞雑誌』

『忍耐堂見聞雑誌』は、明治期の大阪府中河内郡枚岡村大字豊浦(現東大阪市豊浦町)に在住していた医師の手になるもので、東大阪市東豊浦町の阪田照幸氏が古書の展示会で入手され、日下古文書研究会に解読を依頼されたものである。横半帳に記された五冊が現存する。

第三〇号 明治三十年五月二十七日~三十一年三月二十五日

第三三号 明治三十四年十一月十三日~三十六年十一月十二日

第三六号 明治三十八年三月二十五日~四十年九月二十一日

第三八号 明治四十二年一月一日~同年十月四日

第三九号 明治四十二年十月二十七日~大正元年十月六日

三〇号の明治三十年で著者は二三歳、かなり若い頃から日記を記録していたようであるが、欠けている部分が多いのは残念である。三〇号の巻頭で忍耐堂を自身の号とする理由を、

忍耐が好良の指針の静定場裏(中略)永く忍耐の好侶伴たらんことを希望に堪へず

とする。忍耐が医師としての職務に邁進する中での心構えであり、自らへの戒めともとれる。日記によれば忍耐堂の出身地は山口県豊浦郡(ほ)(き)村で、明治二十二年に豊東村となり、現在は、山口県下関市菊川町(しも)(ほ)(き)である。忍耐堂の本名については文中で「末田」と呼ばれており、俳句の下に茂と署名あり、表紙に押捺されている印が末田医院と読める。

『帝国医師名簿大正八年版』(国立国会図書館)の中河内郡枚岡村豊浦の部に末田茂吉の名があり、『関西杏林名家集第2輯』(国立国会図書館1911)によれば、

医師末田茂吉 君は山口県豊浦郡豊東村の人なり、明治七年生、幼にして聡明英知、大阪に来りて刻苦精励、医術開業試験に登第し門戸を張れり、温厚実篤の人にして漢文学の造詣浅からず歌道に長じ(後略)

とある。この末田茂吉こそ『忍耐堂見聞雑誌』の著者忍耐堂である。また『山口懸人物史』(国立国会図書館1939)によれば、

氏は明治七年六月五日末田小三郎氏の二男に生れ、明治三十三年内務省医術開業試験に合格、明治三十六年枚岡村に開業、(中略)夫人タキ子は明治九年生、長男良一明治三十六年生は慶応義塾大学文学部を卒業し大阪時事新報社に勤務、同夫人冨美大正元年生は大阪今谷政蔵氏の長女にして相愛女学校卒業、長男幸男昭和九年十月二日生。氏はその患者を治するや心を盡して誠意親切を以てし、打診正確を以て終始一貫せり(中略)年六十六歳にして患者の救済に尽くし(後略)

とあり、忍耐堂は大正・昭和という新しい時代を彼らしく実直に生き、一九三九年(昭和十四)の六六歳まで豊浦で医師として健在であった。

また同史料に「長男良一明治三十六年生は慶応義塾大学文学部を卒業し大阪時事新報社に勤務」とあるが、良一氏は昭和二十五年に神戸新聞に合併されていた同社を退社されている。(『神戸新聞五十五年史』1955)良一氏の住まいが枚岡神社の西側にあったが、近くの人にお聞きすると、平成に入ってまもなくその子息で忍耐堂の孫にあたる幸男氏が子供もないまま亡くなられて奥様も実家へ帰られたという。

長男良一氏は明治三十六年の生まれであるが、その頃の日記に子供のことは全く出てこない。明治四十二年二月十三日には、

郷里吉屋より子持御前社の風景絵葉書来る

とあり、子持御前社は山口県山陽小野田市大字小野田にあり、ごんぜん様と呼ばれ、弁財天と子安観音を祭り、子育て、子授けの観音として霊験あらたかと内外に有名な神社である。忍耐堂に子がないことで子授けのために送ってきたものと思われる。また同年三月忍耐堂が一人で山口の実家へ帰った時、妻のたき子は毎日のように「寂しい!」と記し、近所の少女に泊りに来てもらっている。この時良一氏が生まれていれば、六歳のやんちゃ盛りである。寂しいはずはない。『忍耐堂見聞雑誌』が終わる大正元年までに子供がいたという記載はなく、良一氏はおそらくそれ以降に末田家へ養子に入られたものと思われる。

豊浦の家は参詣者が枚岡神社へ向かう道にあったとするが、この道は大阪玉造から生駒山暗峠を越えて奈良へと結ぶ奈良街道である。また近くに小学校があるとする。これは明治六年に開校した豊浦尋常小学校である。大正元年の地図を見れば小学校の位置は現在の東大阪市豊浦町十丁目付近である。豊浦の光乗寺の西にあたる。光乗寺住職の記憶によると、末田医院のあった場所は、奈良街道に面する現在の豊浦町十七丁目付近で、近鉄枚岡駅から北西約五〇㍍の現在駐車場になっている場所で

ある。ここは標高五〇㍍にあり、忍耐堂の言葉を借りると、

大阪砲兵工廠の白烟の上る辺りより薄霞群の渡りて、絵の如き摂河泉の平野一昧に映じ、神気爽快を覚へしむ

とあり、はるかに見下ろすと摂河泉の農原が一枚の絵の如くであったという。現在はビルや家並が続き、かつての風景を偲ぶよすがもない。

忍耐堂はすべて物事を見る目が実に真摯で、季節ごとの自然や、どのような状況にも純な感性をもって接し、大げさと思えるような感嘆の言葉で表現する。文体はカタカナとひらがな交じり、明治人らしい難解な漢字や文言を用いながら、その割には易しい漢字の書き誤りがあり、訂正が多いという子供のような書きぶりである。しかし、彼の素直で純真な人柄が伝わる文章になっている。

 

最後に解説を二編入れた。

 

『忍耐堂見聞雑誌』にみる明治期の生駒西麓の暮らし 浜田昭子

日記に登場する事項を項目別に詳しく調査した成果を、写真とともに挙げて理解を深める一助とした。

 

重本多喜津略歴 長谷川治

忍耐堂の小学校時代の恩師である重本多喜津に興味を持ち調べるうちに、まとまった経歴を紹介する文献がないことから、重本多喜津の故郷山口県まで取材し、関係者から得た様々な史料を用いてその略歴を明らかにした意欲的な論考である。
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