会報「くさか史風」第5号
会報「くさか史風」第5号が出来上がりました。
「大阪の感染症対策のあゆみ」 阪田照幸
大阪の感染症対策のあゆみ
阪田照幸
はじめに
このところ新型コロナウィルスの世界的流行で、我々はかつてない脅威にさらされている。これまでの人類の感染症との闘いを思い起こすと、身近な所に史料があったことを思い出した。当会で一昨年翻刻した『忍耐堂見聞雑誌』に、明治期の伝染病との闘いの記録があった。
また、筆者の幼少の頃の記憶を辿ると、大阪の感染症対策の歴史というものが浮かび上がってきた。
一 『忍耐堂見聞雑誌』に見る伝染病の記述
『忍耐堂見聞雑誌』は、豊浦村で開業医として生きた明治七年生まれの末田茂吉の日記で、明治三十年から大正元年までの五冊が遺されている。医学生としての修行時代の明治三十年から三十八年(二三歳から三一歳)の日記には、医学論文や研究についての記述が多くみられる。この頃、伝染病の原因である細菌に関する研究がその途に就いたばかりであった。
明治二十九年、ペストがネズミのノミを媒介として流行することを証明した緒方正規の台湾ペスト論文、インフルエンザの原因が細菌であると考えられていた頃の臨床診断法、明治三十年に志賀潔が発見した赤痢菌の詳細、およびその病状と熱気消毒力について、日露戦争において満州へ出兵した兵士が多く感染した満州赤痢について、腸チフスの解熱剤について等、当時の医学生としての日々の勉学の様子が記録されている。
忍耐堂は、次々発表される論文によって、新たな知見を得て、心躍る思いと共に、日々の診療にいかに活かすかと、努力奮闘している。明治期は、伝染病に関する新しい発見が相次いでいたとはいえ、治療に関してはすべてが手探り状態であった。漢方医学一辺倒であった日本が、西洋医学へ転換する、その出発点に立ち会って奮闘した医師たちの姿をここに見ることが出来る。
二 幼少のころの記憶
筆者は五歳まで、大阪市桃谷の逓信病院(現第二警察病院)の北側に住んでいた。昭和三十年代後半のこと、子供が遊び回る範囲は凡そ一駅の区間であった。母から「あそこは怖いから行ったらあかんで」と言われた場所があった。
それは、自宅の北方にあった桃山病院のことであった。子供としては何か怖い病気の病院ということしか分からなかった。近隣に病院が多い地区で具合悪くなると警察病院や日赤(大阪赤十字病院)に連れて行ってもらった記憶があるが、桃山病院に行ったことはない。自宅と桃山病院の間に牛乳屋があり、よくフルーツ牛乳を買いにいったが、そこから北の桃山病院の方に遊びに行くことはなかった。
母に連れられて、近くの公設市場に行った時、消毒車が勢い良く白い煙を吐き出して、地道の溝を消毒していたのを鮮明に覚えている。何か伝染病が出たのであろうかと、少なからぬ恐怖を覚えたことを覚えている。また、大阪赤十字病院と、産院であるバルナバ病院に挟まれる形で府営筆ケ崎住宅があった。小学校五、六年の担任の先生が住んでいた。
三 大阪のコレラ大流行について
コレラの世界的流行によって、日本では文政五年(一八二二)に、九州から最初の患者が出て、西日本で大流行した。当時は人々の衛生知識が普及しておらず、その上、蘭学医は少なく、漢方医がほとんどであり、西洋医学的対策は全くなかった。自然収束を待つ状態で、庶民は加持祈祷にすがるしかなかった。民衆への衛生学的啓発も大きな課題であった。
明治に入ると明治十年(一八七七)年に「虎狼痢(コレラ)病予防法心得」が発布され、検疫、避病院、届出、消毒、緊急措置等について定められた。大阪府も指示に従い、患者が出た場合の届出方法、患者・死者の着衣の消毒・焼却、病毒ある家屋、及び船舶の交通遮断、飲料水の検査及び制限、食物に対する注意、諸神社の祭礼・開市の禁止、溝・悪水路・便所などの清潔・消毒方法などが定められた。
コレラが流行した明治十二年(一八七九)、大阪府は、
一愛媛、大分、鹿児島三県下ニ付、注意摂生方
一市中支流ノ用水ヲ飲料に供スヘカラスノ件
一尊崇ノ神社ヘ、祈祷ハ勝手タルモ、鳴物地車等ニテ雑踏スルコトを禁ス
などのコレラに関する布令、布達を七二も出し、予防に努めたが効果が現れず、流行拡大が続いた。コレラは明治十年、十二年、十四~十五年、十八~十九年に大流行した。コレラ流行期には避病舎を設置したが、当時は粗雑な木造のバラック作りであったから、流行が終るたびに焼却、又は取りこわされた。
特に明治十九年(一八八六)一月二日に、大阪府で西・南の二区、及び堺区に、五名のコレラ患者が発生したのを皮切りに、翌三日には、西・南・北の三区、及び、堺区に五名が続発した。以降感染は拡大し、四月下旬には大阪市内全域に広がり、ついに七月には大阪府下全域に猛威を振った。しかし、九月下旬になると病勢は弱まり、十二月十三日にようやく終息した。
患者数一、九万人、死者一、六万人、死亡率八十一㌫であった。当時、赤痢や腸チフスの死亡率が、それぞれ約三十㌫から三八㌫であったのに比べれば、コレラの死亡率は非常に高かった。この年の大阪府の人口は一六五万人であり、実に一%近くの人が死亡したことになる。
四 桃山避病院の歴史
明治十九年六月十九日以降には、一〇〇人前後のコレラ患者・死者を記録し、設備の充実した避病院の建設が急務となり、府議会で予算が可決された。翌明治二十年三月、桃山筆ケ崎の地六三〇〇坪の地に、木造の本建築病舎が建てられ、伝染病流行に応じて、臨時開業することとなった。
明治二十二年四月一日、大阪市制が布かれ、同年十月、避病院規則が制定され、嫌われていた「避」の字を除いて、市立桃山病院と名付けられた。すでにあった市立天王寺病院、府立の本庄・千島病院の四院が、伝染病患者が出たときに開院して患者の治療にあたることになった。
明治二十三年(一八九〇)、コレラ大流行があり、同年八月に、これらの四病院が開院し、その収容数はこの年四〇三五名で、そのうち死亡者三三七一名と、死亡率八六㌫に上り、うち桃山病院は収容者九六一名、死亡者七七〇名、天王寺病院は収容者五一八名、死亡者四一〇名であった。
院内感染者は、四病院で六二名であった。桃山病院は八月二十六日より十月十九日まで、天王寺病院は八月三十一日から十月六日まで治療にあたった。
明治二十六年には、赤痢の大流行があり、八月より十二月まで桃山病院を開院、同二十七年は腸チフスの大流行により四月より開院。ついで同二十八年、コレラの大流行で四月より開院。十一月にようやく閉院した。
この年、市内に上水道が通り、本庄・千島両病院は市に移管。明治二十九年(一八九六)四月一日、市立病院規則により桃山病院は常時開院することになり、天王寺・本庄・千島の三病院は桃山病院に吸収され、分院として必要の都度、臨時開院することとなった。
明治三十二年(一八九九)、ペストの第一回大流行があった。同年十一月十八日、初患者が出て、それ以来翌年にかけ七八名を収容した。
明治三十五年(一九〇二)、大正五年(一九一六)にコレラ大流行、明治四十年(一九〇七)にペスト、翌四十一年(一九〇八)・大正六年(一九一七)に痘瘡が流行した。明治四十五年(一九一二)に病院が改築され、それまでの暗く、放射状に配置されていた建物が、南北に整然と列をなした病院に変身した。三分院は廃止され、桃山病院は市内唯一の伝染病院となった。
大正期は第四代院長市川定吉 が腸チフスに感染し殉職する。昭和十二年には鉄筋地上五階、地下一階の近代的な病院となった。五月七日に、五〇周年記念式典を行い、病院での治療に尽力しつつ、感染して亡くなっていった殉職者の慰霊碑を建立して、慰霊祭を執り行った。
戦後、上・下水道の整備、蚊、蝿、蚤、虱、鼠の捕獲、DDTの散布、予防注射などにより、伝染病患者の発生も減少へと転じ、伝染病院の一部を市民病院として転用し、一般市民の医療救護に資することになった。
伝染病患者の少ないときは、大部分の職員は市民病院で働き、伝染病患者が増加したときは、桃山病院に詰め、最悪の場合は一時的に市民病院を閉鎖するという条件のもと、昭和二十一年に、桃山市民病院が開設された。平成五年に大阪市の病院の統廃合により、桃山病院は大阪市立総合医療センター(都島区)に統合され、桃山病院一〇六年の歴史に幕を下したのである。
大阪市立総合医療センターでは現在、新型コロナウィルスの重症患者を受け入れ、感染医療の最前線で闘っている。
五 初期の感染症探索
市制五〇周年に発行された『大阪市政五十年の歩み』(一九三八 大阪市発行)「世人の恐れた避病院から近代的な桃山病院生る」と題された記述から、当時の伝染病流行拡大の生々しい状況が述べられ、そこから初期の感染症対策に、命を懸けて治療に尽力した人々がいたことを知ることができる。現代語に直して次に挙げてみよう。
現在では伝染病といってもチフス、赤痢、猩紅熱などが主であるが、明治の中頃までは、コレラ、ペスト、天然痘など、一度罹ればまず命がないという恐ろしいものばかりが、ほとんど毎年のように流行を極めたのである。コレラは明治十九年のニ万人(府下)、ペストは同三十八年の五百人(市内)、天然痘は同三十年の七千人(府下)、赤痢は同二十六年の二万五千人など、まことに惨禍の酷烈、悲惨なること目を掩わしむるものがあった。そのために年々莫大な防止費を要したのは勿論、常時あつた間に合わせの避病舎ぐらいでは追い付かず、こゝに完全な設備が必要となり、明治二十年、市部専用の避病院が開設された。
これが現在鉄筋コンクリート造五階建の、堂々たる桃山病院の前身である。しかし、当時は伝染病のはやる毎に木造で臨時に開設されていたが、明治二十九年四月からは常設となり、こゝに初めて常任職員が置かれ、患者の診察のほか、伝染病に関する学術的研究を行うことゝなつた。
しかしその頃、世人は所謂「避病院行き」を非常に嫌い、開業医が患者を病院に送ると、いつまでも恨まれると云う有様であったので、病院側としては何とかして世人の誤解を解き、防疫の実を挙げたいと、文字通り命を投げ出して働いたのであつた。
開設から今日まで、約五十年の間に、職員で感染する者三百六十余名、このうち職に殉じた者三十三名、殊に大正十一年には当時の院長市川定吉氏が、腸チフスで感染して逝去するということもあった。かくて開設当初十ヶ年の平均死亡率三割であつたのが、現在では一割三分まで低下したのも、その蔭にはかかる尊い多数の犠牲者のあつたことを忘れてはならない。
桃山病院での殉職者は戦前までで五四名、防疫に従事した公務員、巡査などの殉職者は八九名と、医療関係者よりも多数に上った。伝染病流行の惨状は目を覆うほどのもので、人々を極度の恐怖に落し入れた。庶民の伝染病に対する無知と無理解からくる恐怖心と差別感情から、時には防疫に従事する彼等への理不尽な攻撃さえある中、街や家屋の消毒、患者や遺体の搬送などの困難な職務を遂行した。そして、昼夜を問わぬ懸命の奮闘の末に、感染して命を落としていったのである。
六 上水道の整備
コレラの大流行となった原因として、当時大阪には水道設備がなく、上町台地の一部に良質な井戸水があっただけで、淀川上流で川水をくみ取った水船が、大阪市内の川岸に回漕して、毎朝担ぎ桶で家庭に販売していた。そのため、汚染された淀川の水が販売される可能性も高く、コレラの拡大につながったと考えられる。
コレラ大流行の前年の明治十八年(一八八五)には、淀川大洪水のために市内のほぼ全域が水に浸かり、その復旧工事が衛生面において十分になされなかったために、コレラ被害の拡大を招く結果となった。この後、明治二十八年(一九九五)に、旧淀川左岸の桜之宮に水源地を設け、大阪城敷地内の配水場で揚水し、ここから自然沈下で浄水し、大阪市内に配水する近代的上水道が完成した。以降、伝染病の抑制に大きく寄与したのであった。
七 桃山という地名について
桃山の地は、江戸末期の歌人、熊谷直好の歌に桃畑の広がる様が詠まれており、上町台地上が桃山、斜面が桃谷と呼ばれていたようである。鴬も多かったようで、細工谷一丁目に「是ヨリ西南鴬の丘」の碑が現存する。JR環状線の桃谷駅も、大阪鉄道の駅開業の当初は、桃山駅であった。
市街地の発展に伴って、明治二十年(一八八七)に桃山病院が開設され、その後、キリスト教系高等英学校(後の桃山学院)、国立大阪痘苗製造所(後の大阪赤十字病院)、産科専門の聖バルナバ病院等が建設された。
おわりに
平成十三年から二十年にかけて、桃山の地は大規模再開発により、高層マンションが立ち並び、大阪赤十字病院・バルナバ病院も近代的建築に建替わり、桃山病院が都島区に移転したその跡地も、マンション群と商業施設となり、周辺道路も拡幅整備され、医住一体の緑豊かな町並みに変貌した。かつての痕跡は鶯の碑くらいだろうか。
六〇年前に桃山の地(バルナバ病院)に生まれ、還暦のこの年にこのような文章を書いていることを不思議に思う。幼少の頃は怖いところであったのが、桃山病院が伝染病に果たした大きな役割を知った今、桃山の地が一層かけがえのないものの様に思えてきた。
細工谷交差点角の商業施設の駐車場出入口に、桃山病院での殉職者を追悼する慰霊碑が今もひっそりと建っている。日々ここを行きかう人々のうちの幾人が、過去の伝染病との苛烈な闘いの歴史に目を向けるだろうか。
多くの殉職者の方々への鎮魂の思いとともに、正しい歴史認識によって、「伝染病」に対する差別や偏見がなくなることを切に願う。今、世界が新型コロナウィルスの感染拡大に直面する中で、多くの医療従事者の命を賭した尊い尽力と、行政の懸命の精励があってこそ、我々の安全が確保されていることを忘れてはならない。