善根寺村明細帳に見る中世 浜田昭子
善根寺村向井家文書
善根寺村庄屋の向井家の村方文書については、平成二十年から蔵の中の文書類の調査に入り、三年かけてすべて終了し、目録と史料集を刊行しました。いずれも善根寺村の近世についての貴重な史料となりましたが、その詳細は同二十一年に刊行した『善根寺町のあゆみ』の中に、「向井家文書に見る善根寺村」として収録しました。その中から、 元禄四年(一六九一)の「村明細帳」を題材として、そこからかいま見える中世というものを検討したいと思います。
向井家文書 元禄四年(一六九一)村明細帳
この村明細帳は、写とはいえ筆跡は荒く、文中に書き損じ、訂正が多く、下書であったと思われます。
善根寺村は、古くから日下村の枝郷でした。日下村は元和元年に天領となり、寛永十一年(一六三四)に大坂西町奉行曽我丹波守の領地となり、寛文三年(一六六三)彦坂壱岐守支配の時に善根寺村として分村しました。その後元禄四年(一六九一)に天領となります。その際に金丸又左衛門代官に提出した明細帳です。元禄四年という時期は、まだ大和川付替えも行われておらず、善根寺村はその西端で広大な深野池に接していました。明細帳の表紙には、
「要大切保存」古昔当村状態判明ス
(昭和36年12月10日調)〉
との貼紙がしてあり、これは現当主の祖父にあたる方が蔵の中に入り、ご自身で文書の調査をされた折の覚書だということです。典型的な村明細帳としての形式を整え、近世の早い時期のかなり詳細な村の様子が見て取れる大変貴重な史料です。その中で注目すべき記載が三ヶ所あります。
その1 善根寺村の作間稼ぎー男性・大和への荷運び
まず注目されるのは、
一作間之かせき、男は正月より麦出来候迄は他所へ日用ニ参り、又ハ和州へ歩行荷物参り候
とある部分です。近世の村では農閑期に日雇い稼ぎに出ることは普通ですが、善根寺村では正月から麦の収穫まで、つまり初夏までは大和までの荷運びに出かけていたというのです。その後には
一当村船着場和州商人荷問屋御座候
という記載があり、善根寺浜と呼ばれた船着場に大和の商人の荷問屋があったというのです。
大坂からの船運としては、寛永十三年(一六三六)から運航された「柏原船」が大坂の天満から荷物を運んでいました。河内では「在郷剣先船」と呼ばれて、大和川付替え前は一六ヶ村が船を所持して運航していました。天満から寝屋川を経て吉田川・玉櫛川と呼ばれた大和川に入り、亀の瀬の手前の峠村で荷を降ろし、人力で大和への国境を越え、大和の魚梁船(やなぶね)に積み替えられていました。
この他に、善根寺浜で荷揚げして、生駒山を越えて大和へ人足で運ぶ運送路があったのです。善根寺村から生駒山を越えて大和へ入る道は直越道(ただごえのみち)と呼ばれ、大坂と大和を繋ぐ最短の道筋であったのです。これは、大坂から、善根寺浜と呼ばれた船着場まで船で運ばれた荷物を、この問屋で保管し、ここから大和へ人足で運んだということになります。善根寺村の男たちは初夏までの農閑期に、この人足に出たのです。
古事記には、雄略天皇が皇后になられた若日下部王(わかくさかべのみこ)を妻問いに通われたのがこの直越道であり、万葉集に神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)が、「直越のこの道にして押し照るや浪速の海と名づけけらしも」と詠んでいます。
直越とは、まっすぐに山道を登って峠を越えることで、険しいながらも最も近道になる訳ですから、古代の人々はこの道を越えたのです。中世の時代の直越道はまだ多くの人々が越えて行った道だったのでしょう。元禄四年という時代にも、大坂から寝屋川を経て南に迂回すればすぐに善根寺村(地図参照)ですから、大和川をさらに南の亀の瀬まで行き、人力で大和への国境を越えるよりは、この直越道の方がよほど近くて便利だったはずです。善根寺村はその中継地点として問屋を設けていたと考えられます。
ところが、宝永元年(一七〇四)の大和川の付替えによって、旧大和川筋は細い井路川となったため、剣先船は新大和川の方に移ってしまいます。大坂からの船運は木津川から十三間堀を通って新大和川に入り、亀の瀬まで運航するようになったのです。(『八尾市史』本編近世 交通と運輸)
その上に、善根寺村より数㌔南に、暗峠(くらがりとうげ)を越えて大和へ入る奈良街道が整備され、明暦年間(1655~58)以降から松原村に宿駅が設けられ、人馬の継立を行いました。この道は直越道よりも緩やかなことから次第に賑わい、大和への幹線道となります。(地図参照)
大和川付替えと、この奈良街道の発展によって、大坂から善根寺浜を経て直越道を通る運送路は廃れていったのです。この明細帳から、元禄前後には、まだこの運送路が使われていたことがわかります。直越道は長い間に埋もれてしまって、確かなルートは分からなくなっています。
その2 善根寺村の作間稼ぎー女性・麁(そ)かせぎ
さらにその次には、
女は正月より作間に冬は木綿かせき仕候、又春夏は麁
をかせき申候
とあって、女性が「春夏は麁をかせぎ」とあることが注目されます。「麁」は同じ音であればどんな漢字でもあてた近世の常識から言えば、苧麻・青苧(ちょま あおそ)などと呼ばれる「苧(からむし)」のことです。その茎の皮からは衣類、紙、漁網などに利用される丈夫な繊維が取れます。
その細く長い繊維が強靭で光沢に富むことから、高級な上布(じょうふ)の材料として古くから重視され、現代も小千谷縮・越後上布として広く知られています。しかし布にするまでの作業工程は大変複雑なものがあります。
まず、からむしの粗皮を丁寧に剥ぎ繊維を採取する「苧(お)引(び)き」という作業があり、その繊維から糸を紡ぐ技術は「苧麻糸手績(ちょまいとてう)み」と呼ばれます。緯(よこいと)糸は、裂いた繊維の根元と先端とを撚り合わせて結び目を作らずに繋ぎ、経糸(たていと)は、きわめて細く裂いた二本の繊維を撚り繋ぐという、大変に手間のかかる行程です。一反分の糸を績むには三・四ヶ月かかります。その後、強く切れにくいものにするために、滑車のような器具で糸に撚りをかけていきます。そうしてやっと出来上がった糸を機に懸けて織りますが、苧麻は一反織るのに四〇日くらいかかります。すべての工程を経て一反の布になるのに、半年以上はかかるのです。
中世の時代の庶民の衣類は、ほとんどが苧麻でしたから、この手間のかかる作業を女性が担い、常に苧麻を績まなければならない厳しい生活があったのです。苧麻はこの複雑な行程が欠点となり、一六世紀ごろから各地で木綿の栽培が始まると、急速に木綿に取って代わられていきます。
木綿は糸を紡ぐ行程も苧麻よりはるかに簡単で、一反の布を生産するのに要する時間は苧麻の一〇分の一くらいで済みます。その上、肌さわりが柔らかく、染色しやすいので、衣服にするには苧麻よりもずっと優れていました。
特に河内地方では、宝永元年の大和川付替え以後に綿生産が飛躍的に増大し、その加工業も一大産業となって苧麻の衣類は次第に廃れていったのです。この村明細帳からは、元禄四年(一六九一)には、木綿かせぎも行う一方で、まだ女性が苧から糸を績み、長い時間をかけて一枚の衣類を織り上げていたことがわかります。元禄期(一六八八~一七〇四)大和川がまだ古い流れのままで、新開池や深野池が豊かに水をたたえていた時代には、中世の営みが厳然と存在していたのです。それを大きく変えることになったのが大和川付替えという大事業でした。
直越道の衰退であれ、木綿衣類の普及であれ、大和川付替えが河内における人々の中世的な暮らしを過去へと押流し、近世へと転換させたのです。
徳川家康が江戸幕府を開いた時期を近世の始まりとするのは、支配者の原理であり、庶民レベルでは、時代という区切りを迎えたからといってすぐに転換するわけではないのだということを示しています。よりよい暮らしのために川の流れを変え、それによって効率のよい新しい材料を獲得し、古い手間のかかる技術や習慣を捨て去り、便利で快適な暮らしを築き上げていったのです。そうした営みこそが新しい時代を切り開くのです。
大和川付替えは、何年もの年月をかけて公儀へ嘆願を繰り返し、庶民の努力で実現したものです。つまり、暮らしを向上させようとする庶民の力こそが、時代の歯車を大きく動かし、新しい時代を実現する原動力となるのだということを教えています。
その3 足立家の近世への転換
次に村での牛馬の所有が書き上げられています。
馬16疋
牛16疋
近世の村では牛は四・五軒で一頭を共同で持っています。善根寺村ではこの元禄四年で五一軒の家がありましたから、一六頭は少し多いのです。これは豪農の足立家が一軒で数頭持っていたからと思われます。
足立家は、戦国時代には尾張国で織田信長に仕えていましたが、信長の勘気に触れ、追放されます。その後京都で豊臣秀吉に仕え、秀吉から大坂城築城の石垣普請を命じられます。足立家はこれを契機に、家臣団を率いて河内国日下村の枝郷であった善根寺郷へ移り住みます。足立家の先祖書にはこの大坂城石垣の石の切出しのための石工・人足二万人が善根寺周辺の生駒山麓の池端・中垣内・竜間に住み着き、田畑を開墾し、次第に集落をなしたとあります。(『枚岡市史』第四巻史料編)
この二万人という数字は足立家による誇大表現と考えられますが、足立家の持高は寛保二年(一七四二)に一六九石(『向井家文書』「寛保二年宗旨人別帳」向井竹利氏所蔵)とあります。足立家は日下村でも七三石所有(『日下村森家庄屋日記』享保十三年十月二日条)しており、合計で二四二石になります。この数字はとびぬけた高さです。
それは、この近世初頭の開発事業が順調に推移したことを物語っています。これだけの田畑の開墾と経営には牛も数頭は必要だったでしょう。善根寺村で牛が他の村より多い一六頭というのはこういう事情が考えられるのです。
そして、馬が一六頭とあります。近世においては、馬は主として運送に使われるので、村の中の運送屋が持っていて、精々一頭が普通です。日下村でも馬持ちは一人で、一頭を所持しています。ではなぜ善根寺村では馬が一六頭もいたのでしょうか。これも足立家の所持していたものと考えられます。それは武士団として当然のことで、善根寺に移り住んだ時は、もっと多数の馬を所持していたはずです。帰農してからも、元禄という時代にまだ一六頭の馬を所有し武士団としての機能を有していたと考えられます。
足立家の武士団としての名残はその他にもあります。向井家文書「善根寺村宗門人別帳」によると、足立家には享保七年(一七二二)に、尾張以来の譜代下人として一〇名の名前が書き上げられています。うち一組は夫婦子供連れです。これは中世に武士団としてあった時代からの譜代家臣であり、享保という近世中期になっても、足立家の家臣は親子代々足立家に仕えていたのです。『日下村森家庄屋日記』にも、著者の日下村庄屋長右衛門は、「足立家の家来」という表現を使っています。
その一二年後の享保十九年(一七三四)に、譜代下人は一名となり、河内郡・讃良郡・大和国・大坂などからの奉公人が一七名となっています。このころに足立家が、かつての武士団の名残を脱ぎ捨てて、河内の豪農としての一時代を築き上げていく時期であったと思われます。
元禄四年の善根寺村明細帳には、人々の暮らしの中にまぎれもなくあった中世の名残というものを確かに書き留めていて、元禄期がまだ近世になりきっていない過渡期の時代であったことを示しています。
元禄時代から大和川付替えを経て、享保期にかけてようやく、人々の暮らしが近世という新しい時代に入っていったのだということができるでしょう。