会報「くさか史風」第6号

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会報「くさか史風」第6号

象の来日

八代将軍吉宗は、法律・農政・天文・地理・医学・薬学・蘭学など、産業・文化発展に役立つ実学を奨励し、中国やオランダから科学技術的な知識を獲得するため、漢訳洋書の輸入を奨励しました。

さらに吉宗の関心は動植物、鉱物などの天然物を収集・記録・分類・考察する「博物学」に及び、オランダ商館を通じて、コショウ・ココナッツの苗木や、象・西洋馬・猟犬・九官鳥・山猫など、珍しい動植物を輸入しました。

象が初めて我が国にやって来たのは、室町時代の応永十五年(一四〇八)のこと、南蛮船がインド象を乗せて若狭国にきたのです。その後、慶長二年(一五九七)マニラ総督が豊臣秀吉に贈った象一頭が大坂に到着しています。この時、よほど珍しかったのか、象を見ようとして群集が殺到し、数名の死者が出たくらいでした。慶長七年(一六〇二)、ベトナム船が、徳川家康への献上品として、象一頭・虎一頭・孔雀二羽などを運んできます。家康はこの象と虎を豊臣秀頼に贈呈しています。
 吉宗の命によって、広南(ベトナム)から牝牡二頭の象が長崎に到着したのは、享保十三年(一七二八)六月七日のことでした。牝象は到着後まもない九月に死亡し、七歳の牡象は将軍吉宗に献上されることになり、翌十四年(一七二九)三月十三日、象使い二名と通訳が付き添い、長崎を出発して江戸へ向います。象の来日は一二六年ぶりのことであり、幕府にとっても三トンもの巨獣を江戸まで移動させることなどはじめてのことでした。出発に先立つ二月には、道中奉行稲生下野守正武が宿場に対して、象通行時の注意事項を七か条にして触れています。

その内容は、途中の宿場で大勢が集まり騒がぬこと、青草・竹葉・藁などの飼料と飲み水、大ぶりの馬屋の用意、渡河については浅瀬では歩行(かち)渡し、多摩川を渡る六郷の渡しでは馬三、四頭載せられるような大きさの渡し船の用意をすること、火の用心、通行道の整備のほかに、象を驚かせないために、寺の鐘は撞かないこと、犬や猫は繋ぎ、牛や馬は街道に近づけないなど、詳細にわたる指示でした。最後に「たけ七尺(二、一㍍)、長さ一丈一尺(三、三㍍)、幅四尺(一、二㍍)」とあり、こんな巨体の動物の通行など経験したこともない街道筋では、受け入れのための準備に大わらわでした。象は関門海峡を船で渡り、陸路で大坂を目指します。

 

象大坂へ

象がやってくるという情報は早くから大坂に伝わっており、大坂人たちもこの巨大な珍獣を一目見ようと待ちかねていました。日下村の森家でも、やってくる確かな日にちを大坂町人へ問い合わせています。十八日にやっと、長右衛門の親戚である大坂の商人小橋屋宇兵衛から、象の到着は二十日になると手紙で報せて来ました。

象到着の前日十九日になると、日下村・善根寺村では村人が見物のためにぞくぞくと大坂へ向います。森家からは当時まだ十代前半であった次男万四郎、三男為次郎に、奉公人新八を添えて大坂へ送り出します。善根寺村足立家でも家内一同で大坂へ向います。長右衛門の隣家で相庄屋である河澄家からも作兵衛と母妙誓が見物に出かけます。初めてパンダが上野動物園にやってきた時のことを思いますと、この象の時もどれほど多くの人たちが見物に押し掛けたか分かると思います。

ちょうどこの時、吉宗の命により、全国薬草調査のために採薬使の植村佐平次一行が大和へ入ったため、河内見分もあり得るということで、その準備で河内の村々は大騒ぎの真っ最中でした。長右衛門は薬草御用一行への準備のため、この日、豊浦村道場で河内郡山根村々の寄合があり、象見物どころではなかったのです。

四月二十日、象が大坂へ到着し、尼崎に入ります。「享保の象行列」(山下幸子『尼崎市史研究紀要第二巻二号』)によれば、尼崎城下を行く象の行列は、村役人や御徒目付(おかちめつけ)が先頭を行き、見物人や牛馬を排除し、足軽(あしがる)が犬猫を追い払います。後ろの「象食い物人足」が象の食べ物、米・藁・笹の葉・草のほかに、饅頭やミカンなども運んでいます。もちろん飲水も桶で運んでいます。まるで大名行列のような、見たこともない大行列だったのです。

象は神崎から十三へ向かい、天神橋筋を通り、せきたや町筋を東へ上り、南組惣会所へ到着します。足立註蔵一家、長右衛門の子供たちをはじめ、近郷の村人が馴染の宿屋に泊りこんで象を見物しています。

ワー! えらい大きいなー!

太っとい足や! 丸太みたいやな!

鼻が長いで! ブラブラしとるでー!

耳が大うちわみたいやなー!

と始めてみる珍獣にみんなびっくりしています。

 

長右衛門象見物ならず 

日下村では大和の薬草調査一行への挨拶のため村人が大和の吉野まで出かける手はずで、長右衛門はその対応に追われていました。しかもこの日河澄作兵衛の叔父にあたる見中老が死亡し、作兵衛も急きょ大坂から帰って、葬儀の準備に大わらわという状態でした。

象は二十四日に大坂を発って京都へ向うという報せが入り、長右衛門はようやく用事を済ませて大坂へ向うつもりで布市浜まで来たところ、急に風雨が激しくなり仕方なく引き返します。奉公人勘六を新八と替わり、子供の供に付けるため大坂へ遣ります。これはまだ若い十代の勘六に象を見物させてやろうという、長右衛門の粋な配慮でした。

新八が勘六と入れ替わり、暮方に帰ってきます。結局長右衛門はこの年の春から夏にかけて、河内村々を騒がせた薬草調査への対処のために、象見物の機を逸したのでした。

 

象京都へ

象は南組惣会所で四日間を過ごし、四月二十四日朝五ツ時(午前八時)惣会所を発ち、谷町筋を天満橋へ出て、京橋から京都へ向います。守口で昼食、枚方泊りとのことです。早朝七ツ(午前四時)には奉公人七兵衛と藤七を大坂へ向かわせ、象見物ながらに子供たちを迎えにやります。午後には象見物に行っていた子供が奉公人とともに、足立註蔵一家と同道して帰ってきます。

象は四月二十六日に京都に到着し、中御門天皇の上覧に供することになります。上覧には官位が必要なことから、象に「広南従四位白象」の官位が与えられたといいます。しかし、この説は『江戸名所図会』だけの記載であり、当時の京の公家の日記にも記載がありません。どうやら江戸人の作り話らしいのです。御所に入ると、中御門天皇と霊元上皇の御前に出た象は、象遣いの命で、うやうやしく前足を折り曲げて最敬礼の所作を演じたのです。

この時の中御門天皇は、象を見た感動を歌に詠んでいます。時しあればひとの国なるけだものもけふ九重にみるがうれしき 

天皇ばかりでなく、この時象を見た人は和歌・俳句・狂歌などに詠んで作品を残しています。人々が初めてこの大きな象を見た時の驚きと興奮が伝わってきます。  

 

象江戸へ

その後、象は京都を発って江戸へ向います。ここからは大きな川を渡すのに大変な苦労です。長良川では大きめの船を二隻並べてその上に象が入る小屋をかけた象舟が用意されていました。しかし、象は機嫌が悪く、船に乗ろうとしません。そのため、太い足に綱を巻きつけて大勢で象を引っ張り、なんとか船に乗せて川を渡りきりました。ところが対岸には象を一目見ようとたくさんの人が歓声を上げて待ち構えていました。それに驚いた象は突然見物人に向かって突進したのです。全力疾走した象は村のはずれまできて、やっと落ち着きました。
 浜名湖の北側にある姫街道に迂回した時には、あまりの急坂に象が悲鳴をあげたという難所があり、ここを村人は「象鳴き坂」と名付けたそうです。

五月十七日には、箱根の宿についたとたん、長旅の疲れか象が突然倒れてしまいました。つきそってきた長崎代官所の役人たちは慌てふためき、江戸城へ「象不快」と早飛脚で知らせます。その一方、箱根権現で護摩を焚いて病気平癒を祈りました。こんな所で象を死なせたら、役人たちは切腹ものですから必死です。さらに象の好きな竹の子なども各地から取り寄せ、懸命に手当をします。幸い、象は三日後には元気になり、一同ホッと胸をなで下します。          

多摩川の六郷の渡しでは、用意の渡し船では無理ということになり、船橋が作られました。三〇隻の船を並べ、その上に板を敷き、要所に杭を打ち、虎綱という太い綱で船を固定します。工事には、六郷領だけで延べ八〇五人の人足が出て作業し、費用は、六郷領三六ヶ村と川崎領二六ヶ村が負担したのです。象のために庶民はとんだ迷惑です。

五月二十五日に象は江戸に到着し、二十七日に将軍吉宗が江戸城大広間から象を見物しました。その後、象は浜御殿で飼育されたのですが、動物好きだった吉宗は度々出かけて自ら餌をやったりしています。

江戸の町では象の話題で大騒ぎとなり、巷には『象志』・『象のみつぎ』『馴象編』などの本や、一枚刷りの図「広南霊象図」や象の錦絵などが刊行され、刀の鍔(つば)根付(ねつけ)(帯にはさむ飾りもの)にも象がデザインされ、当時の歌舞伎役者も顔負けという大人気になるのです。「象のかわら版」が出されて、それには、

象の眼は笹の葉のごとく、すべて長い鼻を巻きのべて食をとり水をのむ。足は柱のごとく太く、足指は見えず、栗のような爪五ツあり。尾は牛の尾のごとし。その寿命五百年をたもつ

とあって、寿命五百年は大げさですが、江戸の町は象の話題でもちきりだったのです。

 

禁裏より薬頂戴

象騒ぎから二ヶ月たった六月、長右衛門は植付与兵衛に禁裏から配布された薬をもらっています。これは昔、象が日本に来てから悪病が流行り、万民半ば死去したことが旧記にあり、この度の象来日に危機感を抱いた朝廷が、万民の慈育のために調合したものというのです。いつの世にも天皇は民の上を慮っておられるようです。

 

象のその後

その後象は成長し、食べる量も、一日に米八升、饅頭一〇〇個、ミカン一〇〇個、藁一二〇㌔、笹の葉九〇㌔、草一二〇㌔という膨大なものとなります。気も荒くなり、象使いが殺されるという事件が起き、その飼育に行き詰った幕府は、餌係の中野村源助に払い下げることとなります。

寛保元年(一七四一)浜御殿から中野村にうつされた象は周囲に空堀と土手を築いた小屋に収容されます。中野村の源助さん、ここでまた一もうけをしようと考え、入場料をとって庶民に見物させます。象をかたどった記念グッズやゾウだんご・ゾウ餅も売り出します。

毎日大量に排泄される糞も無駄にはしません。乾燥させて黒焼きにし、「象洞(ぞうとう)」と称して、当時最も恐れられた疱瘡(ほうそう)(天然痘)に効果があると宣伝して売り出します。これは大当たりとなり、人々が争って買い求めたのです。

しかしこれが本当に効いたかというと、そんなはずはないわけで、当時の書物には、「疱瘡の薬といって象洞を十六文で売っているが、効いたものは一人も無し」とあります。この象洞は大坂にも送られていたようで、長右衛門も大坂から手に入れています。疱瘡に効くといわれて、象の糞を飲まされていた子供たちもいい迷惑だったでしょう。

しかし、なんと言っても浜御殿でのような手厚い保護は得られず、待遇の悪化となり、一年後の寛保二年(一七四二)に象は死亡します。長崎に上陸してから一四年後のことで、二一歳でした。

 

その後も源助さんは、象の頭蓋骨と牙の見世物興業を行っています。たいした商売根性です。その後象骨と牙は中野村宝仙寺へ売却され、長く寺宝として保存されていたのですが、戦災で焼失したそうです。現在、東京都中野の公園に象小屋の跡という看板が立っています。

 

おわりに

 経済都市として繁栄し、諸国の産物は言うに及ばず、中国から輸入される珍しい動物の毛皮や、絵図によってたいていの珍獣には慣れていた大坂人でしたが、さすがに生きた象の通行には度肝を抜かれたに違いありません。河内人たちもこぞって大坂へ象見物に出かけ、この年最大のイベントになったのです。

しかし、故郷を遠く離れた日本にまで送られ、野生では七〇年の寿命といわれるのに、二一歳の若さで生涯を閉じた象には、とんだ迷惑なことだったにちがいありません。

 

参考文献

法令集『憲教類典』(国立公文書館内閣文庫所蔵)

尾張藩『御日記』徳川林政史研究所所蔵

『国史大系徳川実記』吉川弘文館

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