『忍耐堂見聞雑誌』から学ぶもの
日下古文書研究会ではこれまで、近世文書の解読を通じて近世の村の暮らしを追い続けてきた。『忍耐堂見聞雑誌』は我々にとって初めての明治期の史料であった。
近世文書と明治の日記との違いは何であったかと考えると、近世は百姓という民衆の上に、欠くべからざるものとして支配者が存在していた。村方文書類は常に支配者への嘆願であり、届出であり、年貢納入であった。庄屋日記類も常に支配者の動向を第一番の重要事項として記録しているといっても過言ではない。
それに対して『忍耐堂見聞雑誌』は何と自由なことだろう。著者の忍耐堂は何物にもとらわれないで自らの医師としての勉学に励み、俳句や和歌に親しみ、旅に出かけて風景に感嘆し、新聞から広範囲の情報知識を得て、自分なりの感想と意見を吐露する。忍耐堂が生きたのは、明治維新という大きな変革の波が、庶民の上にあった支配者への服従という巨大な覆いを流し去り、近代化へ邁進する熱いエネルギーが溢れ出す時代であった。
しかしながら、明治三十年から四十五年にかけての風俗は江戸期と同じく、ほとんどの人が着物を着て、女性は髪を結っていたし、下駄、足袋、火鉢、炭団、蚊帳、藪入りや小正月の左義長、節分のお化けや歳末の節季候など、江戸期の風俗がなお厳然と存在していた。しかも庶民の間では、江戸時代のままの旧暦を使用する習慣がなお根強く残っていた。
明治三十年の歳末に、尼崎の中馬医院で修行していた忍耐堂は、以前大阪に暮した頃は歳末といえば、町は買い物客で溢れ、繁盛する様子を見馴れていたが、尼崎の歳末は不景気もあってか町の賑わいもなく、淋しい様子であると嘆いている。しかも「当地又下等社会多く、旧暦を保守するもの過半、従って一層の淋しさ」とあって、明治三十年という時代にも関わらず、庶民は正月も旧暦で迎える習慣が残っていたために、新暦での正月はなお一層淋しいとしている。
明けて明治三十一年、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母である英照皇太后が前年の一月十一日に崩御され、宮中より一年間の服喪が発表され、一年後のこの年一月十一日に御一年祭が執り行われた。新暦の元日はまさにその服喪期間に当たっていた。旧暦の元日は新暦の一月二十二日であり、ちょうど喪が明けたので、民衆は旧暦で正月を祝ったのである。喪中ということに関係なく、庶民にとっては何の不都合もなく、旧暦で祝うことはいつもと同じことであった。明治に入って多くの変革が行われたが、一般庶民が新しい制度に慣れるのには、かなりの時間を要し、明治三十一年という時代にもなお旧暦が生きていたのだ。
そして日清・日露の二度の世界を相手にした戦争が、江戸期以来、閉鎖的な村の中に押し込められていた大衆の目を世界に向けさせた。忍耐堂は新聞の伝える日露戦争の大勝利に歓喜しつつ、賠償金なしの講和条約締結に対する国民の不平感情を正確に捉えるとともに、この戦争の勝利が日本の国際的な立場を大きく飛躍させたことを誇りとしている。
新聞という新しい媒体から世界の情報を得て、国際社会での日本という国の立場をも理解することになった。この戦争によって日本の大衆は、殿様という支配者の下に位置する百姓領民という立場から抜け出して、平等な日本国民という意識を持つに至ったのである。
その上に西洋文明が急速に押し寄せてきていた。鉄道の整備は目覚ましく、交通事情は目に見えて便利になっていた。都市部では日本古来の宝物を展示する博物館が設置され、世界各国の最先端の技術を網羅した勧業博覧会、共進会と称する品評会が各地で催され、勧商場という大型のショッピングセンターが営業を開始し、人々はそれまで見たこともない珍しいもの見たさに押し寄せた。忍耐堂も博物館や博覧会で珍奇の宝物や展示品に目を奪われ、珍しい飲み物を味わい、夜になるとイルミネーションの華麗な光に目を奪われる。新しい科学技術に民衆が大きく目を開かれた時代でもあった。
そして注目されるべきは医師としての忍耐堂の眼が映し出す明治期の医学界の状況である。コッホや志賀潔が感染症の病原体の解明の途に就いたばかりであった。そうした原因も治療法もわからない難病に立ち向かい、忍耐堂の医学へ邁進するその必死の努力こそが、すべてが手探り状態であった明治期の医学の発展を支えたものであったろう。漢方医学一辺倒であった日本が西洋医学へ転換する、その出発点に立ち会って奮闘した医師たちの姿をここに見ることが出来る。
『忍耐堂見聞雑誌』は明治という時代に大きく目を開かせてくれた。新しい時代の波に洗われ、古いものが失われていく痛み、江戸期の香りは遺しつつも確実に変わりゆく民衆の暮らし、我々がこの史料から学んだものは、明治の近代化への道筋にあったものすべてを網羅しているといっても過言ではない。
『忍耐堂見聞雑誌』と取り組んだ日々
忍耐堂は明治期らしい漢文訓読体を用いていた。その文体を見ただけで、近世文書よりは楽に解読できるかと思われた。しかしそれは大きな誤算であった。文字は明治期の特徴ある旧字体で、旧かなづかい、難解な漢字や文言が多く、しかも忍耐堂は漢字を自分流に書いていて誤りが多い上に、書き直し訂正はあちこちにあり、一筋縄ではいかないと悟った。読み下すには漢文や古文の知識が必要であり、その上に、病気の症状・治療法は医学知識のない我々にはチンプンカンプン、さらにドイツ語の文法まであって、頭を抱えるしかなかった。
肝心の日記の著者は忍耐堂とあるだけで本名は記されていなかった。この史料を提供していただいた阪田氏は、当会での解読に参加され、著者の解明にも精力的に取り組まれた。表紙の印から末田医院と読め、文中の和歌に茂とあることから、明治期の医師名簿に末田茂吉の名を発見し、この人物が忍耐堂であることを突き止め、旧土地台帳から末田医院の住所を確定するに至ったのである。
登場するものすべてが今では馴染みのないものばかり。当会会員の能力を総動員して明治期の難問に取り組んだ。日露戦争の戦死者名簿に忍耐堂の従兄弟の権吉の名を探し、忍耐堂が乗った馬車の通った地名を明治期の地図に探す。内国勧業博覧会や共進会、勧商場、伊勢参宮の折に宇治まで乗った電車(廃線となった路面電車)、名古屋からの帰りに柏原駅から八尾駅まで乗った自動車(短期間導入された気動車)など、歴史のかなたに過ぎ去ったものばかり。闇の中を手探りするような骨の折れる作業ながら、キラキラした宝物を砂浜から見つけるような楽しさに満ちていた。
忍耐堂の住んでいた枚岡村大字豊浦は今我々の住む地域であるだけに、この日記に見える明治の風景が何よりも懐かしい。正月元旦の朝五時に大阪城跡地の大阪兵営から号砲が発せられたこと、見渡すばかりの田畑の広がる大阪平野に大阪砲兵工廠から立ち上る白烟のさまが絵の如くであったこと。このころはまだ大阪城天守閣は再建されていなかった。
枚岡神社が鬱蒼とした森に覆われていたこと。小正月の左義長で河内平野のあちこちで炎があかあかと燃え上がったこと。歳末に訪れた節季候の滑稽な演技に笑いさざめきあったこと。冬の厳寒で冷飯までが凍ってしまったこと。明治期にこの地にあった美しい風景と、懐かしい暮らしを閉じ込めて、我々に見せてくれている。この時代よりはるかに便利で快適な暮らしの中にある我々は、それらすべてがもう二度と取り戻せないことを知っているからこそ限りなく愛おしい。
忍耐堂は明治天皇の崩御後、桃山御陵に参拝する。明治天皇と、明治という時代へ別れを告げる俳句を最後に、『忍耐堂見聞雑誌』は唐突に終わる。彼はまだ三八歳であった。彼の人生はまだまだ続いたし、『忍耐堂見聞雑誌』も書き継がれたはずであるが、その大部分が失われている。我々はそのことを惜しまずにいられない。ただこの五冊が遺されて我々の手に託されたことを幸いとしょう。
文献によれば、忍耐堂は大正・昭和という新しい時代を彼らしく実直に生きたことがわかる。それ以後については、豊浦の光乗寺住職が記憶しておられた。光乗寺のすぐ東の奈良街道に面して末田医院があり、昭和二十八年前後まで診察にあたっておられたという。忍耐堂末田茂吉氏は八十歳近くまで長寿を保たれたのである。
若い頃に末田医師に診察を受けたことがあるという古老によると、髭をたくわえた優しい先生だったとのことである。その頃は、奈良街道の細い山道に、末田医院と、隣の旧家の屋敷しかなかったという。このあたりは生駒山へ向かう奈良街道沿いの緑豊かな山里であったのだ。小川は暗渠になり、広い道路が通り、その両側にびっしりと家が立ち並ぶ現在の状況からは想像もできない。
忍耐堂の死後、忍耐堂の孫にあたる幸男氏が亡くなられて後、豊浦における末田氏は断絶に至る。しかし忍耐堂の出身地山口県下関市菊川町下保木には末田家のご子孫がご健在であり、当会会員の長谷川治がお尋ねしてお会いすることができた。
彼の報告によると、忍耐堂の故郷は、開発の手が及んでおらず、自然豊かな山野に囲まれた美しいところであった。末田家の菩提寺である西光寺も訪れ、大阪で末田茂吉氏の遺された日記を解読していることをお話すると、驚かれながらもいろいろご教示いただくことが出来たとのことで、我々には貴重な収穫となった。